高雅
概要
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姓氏家系大辞典
條を見よ。上總、常陸等に社丹波郡の豪族にして、原主人と共に、矢田村顯親堀川光俊-(堀河條を見よ) 2單 座右衞門高嗣-高雅-定嗣----藤---定定-東宝安: :機中納言福中路:光惠·光氏-定觀-朝觀丹陵守就取一種女子順傳院御乳母、大精英典停忍城一六山城、河内等に此の地名あハンプハニフ條を見よ。ハムフ- 八十四正宗顯俊-賴隆-賴俊權中的言口9·-観後--賴---體中納官中加言親朝: -藤朝:も何事の御諚ぞと問ひけれども、信賴·言も宜はず、著座の公輸も一言の返答なかりければ、況して食議の沙汰もなし。程經て光賴〓突い立ちて、惡しう參つて候ひけりとて、閑々と步み出でられけり。庭上に充ち滿ちたる兵共、これを見奉りて、あはれこの殿は大剛の人かな、去んぬる十日より、多くの人·出仕し給ひつれども、右衞門督(信頼)殿の座上に著く人一人もおはしまさゞりつるに、仕出したる事よ、門を入り給ふより、即かも臆したる體も見えず、あはれ、この人を大將として合戰せば、何計か愚しからんと申せば、傍なる者の昔賴光、賴信とて、源氏の名將おはしましきその賴光を打ち返して光賴と名のリ給へば、これも剛にましますぞかしと云へば、皆忍び笑ひに笑ひけり。光賴癇新樣に振舞ひ給べども、急ぎても出でられず、殿上の小都の前、見參板を高らかに踏み鳴らして立たれたりけるが、荒澤障子の北、萩戶の邊りに、弟の別當惟方のおはしけるを招き寄せ宜ひけるは、こは何に勅定なればとて、爭で存する旨を一儀申さづるべき。我等地租·勳修寺內大臣三條右大臣、延喜の聖代に仕へてより以來、君·既に十九代、臣又十一代、承り行ふことは皆これ德政なり。一度も惡事に從はず。當家はさせる英雄には非ざれども、偏に有道の臣に伴つて、讒依の輩に臭みせざりし故に、昔より今に至るまで、人にさしもどかるゝ程のことはなかりしに、御邊始めて暴惡の臣に語らはれて、累家の佳名を失はんこと口惜しかるべし」と第惟方は分脈に「平治亂の時、右衞門督信頼に語はれ、後に主上、上皇を竊みて之を出し奉る。仍りて世人·中別當と號す」と見ゆ。次に光頼の孫光親は承久の亂、動王の士にて「承久三·七·廿三、駿河國にて斬らる、卅六(一に四十六)、承久亂以後橫災」と載せ、その子光後には「承久三年配流、同四年歸京」と註し、子孫に南朝の忠臣たる人多し。堀河條を見よ。又光資は「出羽守、南朝に侯し、天下の事に依りて、建武二冬、出羽國に於いて斬首」とあり。また源平盛衰記に「葉室中納言俊賢、葉室大納言光賴」を載せ、本國寺文書に「嘉曆三早葉室左少辨長光」toその後、太光顯-光資:出がず號町口宗賴-宗方-資賴-季類-賴親時續·博士左右衛四大賴藤-長隆-長光-長宗-長忠第二理大、風:體大:賴房頼乗長顯便大------------------------------大大空隙-宗豐報時頼任成隆∴長藤南大〓忠-光忠-賴麗-賴房樂風大:長急係國內正覺安德福キロ光頼は平治物語に「光頼卿參內の事云々。勸修寺左衞門督光賴痼·傳子桂右馬九範能.外雜色四五人召し具し、紫宸殿の後を經て殿上を廻り、信頼卿の上にむずと著き給ふ。光頼は信頼卿の爲には母方の叔父なる上、大力の剛の人なれば、殊に恐れて見えられけり。今日は衛府督が一座すると見えて候ふ。召に參ぜざらん者をば、死罪に行はるべしとやらん承りて、參內する處なり。抑平記卷十六に葉室中納言長光、三十三に葉室左衞門督·見ゆ。頼房の後は、知譜拙記に「頼房(從二位、權中納言、母は宜秀卿女) -定藤(藏人頭元長〓)-賴宣(三木、實は賴房二男) -賴隆(兵部少、實は冬隆の二男)-賴葉(正二位、權大納言、實は孝房二男)-賴孝(從二、權大納言)-賴重(藏人、右中辨.東宮大進、貞享元正五上·十六歲)」と。その後は「賴重-賴胤-賴要-賴熙-賴諦-顯孝-長順-長邦-長通」にして、德川時代、名家、舊家。百八十二石、方領百石、後百八十三石、(明治二百八十石)。二階町東側南角。寺は葉室山常住寺。内々。現今伯爵。三十三に親善の申狀に「痛かに當家の系をすでに、人王四十代天武天皇第四皇子舍人親王五代孫·右大臣〓原眞人正高の後胤、四位宰相正通より、親善に至る五十九代、朝家に仕へ奉り、事ら忠誠を拔んず。就中、承久年中、囊祖修理大夫善賢、及び菊池隆定·敢へて東夷に與せず、勅に隨ひて、戰功を勵む。玆によりて平義時の爲に本領を沒倒せられ訖んぬ。文永弘安年中、蒙古の逆賊·兩度、日本に屬來するの時、高善、武房·勇を戰場に勵し、名を異域に傳ふ。後醍醐帝の御字、元弘三年正月十五日、善安·菊池寂阿と同心し、勅詔を奉じ、同年三月十三日、博多に發向し、平英時の爲に、寂阿父子、善安一族、百三十騎·戰死を遂ぐ。建武二年、尊氏直義·叛逆の時、武重、吉宗·上洛して忠戰を拔んず。其の後、尊氏·筑紫に下向する時、在國の一族等、菊池武敏と少貳妙惠を討ち、且つ多々良濱に於いて戰功を顯はす。去る文中年中、今川貞世、仲秋等·肥州に寄せ來る時、數々防戰し、殊に水島〓に於いて、貞世、仲秋等を追落す。然る後、武朝、親善·將軍宮に屬し奉り、肥前に在陣するの處、今川貞世·又松浦以下を相率ゐ、博多に打つて出づる際、尼後守護代武國、武元、觀善·爭戰を遂げ、追藩し訖んぬ。其の後、貞世、仲秋、大內、大友·豐後、豐前の勢を率ゐて發向する間、蜷打の陣に於いて、一族多く討死す。天授四年、今川一族、少貳、大友、大内兄弟·數千騎を以つて、肥後に寄せ來る一四、詫磨原に於いて、合戰を遂げて勝利を得、弘和二年、將軍宮を奉じ、豐後に進發する間、武朝、親善等の一族、忽ち反逆を企てゝ守山城に楯籠る。此の故、武朝、親善·時日を廻らさず、馳せ向ひ悉く追落し訖んぬ。然る處、何故に代々三百餘歲の忠義を捨てられ、忽ちに懸命の領知を沒收せらるゝ事歎息するに餘あり。空しく紅淚に沉み、越に於いて盡忠の事實を述べて、本領の安堵を希ふ所、仍りて件の如し。弘和四年七月日、葉室左近將監〓原親善判」と。菊池傳記等にも「觀善·讒に依りて、領知二千八百五十町を沒收せらる。玆によりて其の歎に堪えず、菊池武朝を以つて、訴狀を吉野朝廷に献ず。朝廷·議して本號御衣印葉室2〓原姓(一に菅原姓)肥後の豪族にして、清原惟光(實は菅原氏)·衣笠氏、後笠氏と稱す。其の五世孫善賢·葉室氏と云ふと傳へらる。系圖に「善賢-高善-吉宗-資善-親善、弟善安」等見ゆ。カサ條一四三九頁に詳か也。一族·承久より南北朝に亘りて忠節を盡す。 ハムロハモタ-ハモチハモノ-ハヤカタ四八五六領安堵の綸旨を腦」と曰ひ、又「善保·阿蘇大宮司の緣座に依リ、承安中、肥後に來る。是れ肥後葉室の祖也。其の末裔に室左兵衛なる者あり、其の居住の所を、今に室小路と云ひ、飽田郡古府中に在り」など見ゆ(事蹟通考)。又古記集覽に「今度逆徒英時の一族·殘る所なく討ち捕る。則ち實檢の爲、首三百五十を註進候。然るべき者、武重、井に貴殿·免許あるに於いては、松浦等を相率ゐ、肥後に至り、御下知を蒙むるべく候。委細の儀は眞壁豊後守に申し含め餃。此の趣を以つて宜しく御披露に預り餃、恐惶謹言。五月廿八日、少貳妙惠判、大友具鑑判。葉室左近將監殿」と。地名辭書に「葉室家の領知、並に居城とも古書に見る處なし。唯阿蘇郡、小國郷上田村に四原城跡あり。葉室代々在城、年代等不分明云々と傳ふるのみ。燃れば當府に在つて小國〓の內を領せられしなるべLo何の世に亡びたるか亦詳ならず」と。又事蹟通考に「〓原正高-正通(從四位i.宰相)-善保(正通の後孫、修理大夫。承安年中、肥後に來りて葉室と稱す)-親通(葉室侍従)-善賢(修理大夫、承久の質、勅を奉ず、云々)-高善(右馬頭、蒙古襲來の時、防ぎて功あり)-善安(左近將監、元弘三年三月十三日、博多戰死) -吉宗(左近將監)-親善(左近將監)」と見ゆ。その他は笠條を見よ。又肥後國志に「文永十一年、葉室太郞高善·對馬に赴きて、蒙古軍を破る」事等見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)