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馴馬(9)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

9八代字土の名利家顯與の後は事蹟通考に據るに次の如し。猶ほ第七項と參照せよ。三代顯興-四代泰興(彈正少弱、伯耆大夫判宮、伯耆守、從五位下。實は基長の四男、顯興の第也。五代顯眞波守、正五位下、法名義存)。六代〓長·顯眞の子。彈正少粥、從四位下足利義〓·名の一字を授く。永享六年·宇土を領し、享德元年五月二十一日生害(〓須賀日記)。法名照阿(家系圖)。海東諸國記に「〓信。己卯年、使を遣はして來朝す。書して肥後州八代源朝臣〓信と稱す。歲に一船を遣はすを約す」と。己卯は皇朝長祿三年也。〓信·疑らくは〓長の謬也。燃れども享德元年の章に據れば、則ち又〓長に非ず。但し諸國紀の己卯は又乙卯の誤にして、永享七年なる 射、而して他に考證なし。姑らく此に附くと。この說·猶ほ考ふる要あらん。七代義興·〓長の子。伯耆守、従五位下。足利義政·名の一字を授く(家系圖)。長祿三年十二月十三日生害(蜂須賀舊記)。法名梁傳棟公(家系)。室は阿蘇大宮司惟郷の女(蜂須賀舊記)。八代顯忠·義興の子。幸松丸(洞然長狀)、彈正少弼、伯耆守、正五位下。義興卒し、子無し。故に養子と爲りて家を繼ぐ。(家系、本書には實父の名を開く)と。系圖に「〓長の弟有尊の子」とす。阿蘇大宮司惟忠·名の一字を奥ふ、(蜂須賀舊記)。永正元年二月、八代城を相良長每に讓り、顯忠父子は木原城に移り、同年又字土城に遷リ居ると。これより前、文明年間、名和氏·相良爲續と爭ひ、十五年冬、爲續·古麓城を攻め、十六年三月七日、敗北·城を棄つ。相良條參照。に「武顯に作り、明應二年蔵城を退去す」と。後宇土爲光を討ちて、代りて字土郡、及び飽田半郡、及び益城郡宇富莊等を領すと云ふ。法名悟山紹契(家系)。九代重年·顯忠の子。伯耆守、従五位下。法名俊紹貞(家系)。年は一に俊に作る、訓·相通ず。按ずるに、文明十七年十二月、重年·臣蜂須賀家親に與ふる感書あリ。蜂須賀條參照。又洞然長狀、八代悟眞寺記、蜂須賀舊記等に永正元年に顯忠を載す。文明より永正に至る其の間二十年なり、感書·疑ふべし。然れども其の文中事·洞然長狀と相符合し、且つ文製、書體·今時の質物に非ず。然るときは則ち八代沒落の比にして、重年より先づ感狀を與ふる乎。訂攷未だ詳かならず。又洞然長狀、永正十三年に伯耆守長照あり、恐らくは重年·後に長照に改む歟。十代武顯·重年の子。彈正大弼、伯耆守、從四位下。宇土郡椿原村宗福寺に位牌あDo銘に「前伯州大守從四位下彈正大弱大仙紹果庵主、天文十五年丙午六月十一日逝去」と、家系亦之に同じ。室は阿蘇大宮司惟憲女。蜂須賀舊記にあり、本書に則に作るは誤也。憲と則とは音通ず。十一代重行·武顯の子。伯耆守、從四位下、法名熊叟一卓(家系)。限府に於いて元服、菊池重治·名の一字を授く(家系、蜂須賀舊記)。室は阿蘇大宮司惟豐女鮮須賀舊記)。十二代行興·重行の子。伯耆守、修理大夫、正五位下、從五位下。實は重行の第、養はれて嗣と爲る。是れより字土を家號と爲す。所藏文書に「「上郷按察中納言。天文二十二年五月二十一日宣旨。宇土伯耆守行興·宜しく修理大夫に任ずべし。藏人權右少韓藤經元奉」と又「上郷廣橋大納言。弘治二年四月十四日宣旨。正五位下源行興、從四位下に叙すべし藏人左中辨藤原淳元奉」と0宇土郡椿原村宗福寺に位牌あり、銘に「前伯州太守從四位下修理大夫源朝臣英興道宗居士、永祿五年壬戌三月十三日逝去」と家系·これに同じ。十三代行憲·行興の子。宇土十郞。早世、法名空山順性(家系)。松橋醫宮田某が系圖に行憲の庶第に「土屋右馬助顯定、本〓市左衞門顯正」あり、宮田は其の裔なりと。信ずべからず。十四代行直·行憲の嗣。伯耆守、從五位下。實は行興の第也。行憲に子無し、故に行直·家を繼ぐ。法名昌翁自繁(家系)。益城郡莎崎村福城寺に位牌あり、銘に「前伯州太守昌翁院自繁公山主。」と。十五代顯孝·行直の子。宇土左兵衛佐、從五位下。始め大友家に屬し、天正七年、伯耆守、修理大島津家の麾下と爲る(島津家德、同世祿記)。此の年冬、島津義久·太田神崎三百町(字土郡の地)を以つて顯孝に授く世祿記)。十五年夏、豐臣秀吉·征西の時、從ひて先鋒と爲り、凱旋後、本領を賜ふ。佐々成政の隈部、和仁等を討つや、顯孝·兩端を持して、兵を出さず。亂平ぐの後、大坂に趨き秀吉に謁し、一撥の黨に在らざるを陳ず。時に弟顯輝·宇土に反す、故を以つて領地五百町を除かる(佐々傳記、島津家傳、藩翰諸)。慶長十三年十一月二十五日卒、法名勝庵大殊(家系)。十六代顯武·顯孝の子。龜之助、村上右近大夫。正保二年三月二十七日、球磨に死す、年五十、法名郡翁宗耶。號長松院。母は朽綱三河源置康の女。弟長興は兄の嗣となる。其の妹は大矢野民部大輔種基〇四、大矢野系圖に見ゆ。其の弟顯貞は龍之助、寛永十四年三月十六日死、年三十四、法名月照一峰。以上母は顯武に同co次に「顯輝-長興(猪之助、正次郞、伯書太郞兵衞。立花宗茂に仕ふ。刺髪して雪入と號す。貞享元年十一月二十四日死法名了道宗覺) -長盛(伯耆十左衞門、貞享三年九月九日死、法名秋室彈月)」右の系圖は柳川伯耆家の所藏なりと。また顯孝の弟願輝は惡四郞、天正十六年春、顯孝の大坂に至る時、顯輝を留めて宇土を守らしむ。時に毛利勝信、黒田孝高等、秀吉の命を奉じ來りて國內の亂賊を匡糺す。顯輝·出でゝ謁せず。勝信等、之を秀吉に告ぐ。秀吉命じて之を討つ。顯輝·城を閉じて堅守す。然れども兵の寡くして運を開くべからざるを謀り、四月十六日の夜、密かに城を除えて薩摩に走り、出水に匿る。島津義弘これを聞き、兵を遣はして之を攻む。顯輝·强戰數合、遂に自殺す、年十九、薩人·其の膽勇を感じて建廟を出水に建てゝ之を祭ると云ふ(佐々傳記、藩翰諸、島津家傳)。傳記には年月を書かず、藩翰譜には十六年となし、家傳、及び家系には十六年四月十六日と爲す。肥後地志略、名和傳譜には秀吉が征四の時と爲すは誤也。第行良は伯耆角左衞門と稱す。その他の事は、宇土、伯耆、蜂須賀、相良等の條に多し。10末裔長興の後は、その子「長盛伯書十左衞門)-長治(伯耆太郞左衞門)-長則(伯耆太郞兵衞)-長庸(名和十左衞門)-長之(名和太郞兵衞)-長恒(名和十左衞門)-昭興(名和十郞)-長靖(名和十郡)」(名和氏紀事、將士軍談)。又姓氏分脈に「名和顯高·肥後國飽田〓櫻木郷に居る、因りて櫻木次郞太郞と稱す」と。又立花家臣に名和勘介·見ゆ。11豐前の名和氏下毛郡の豪族にして、應永正長の頃、名和寂心あり。應永戰覽記に「下毛郡司名和入道寂心」と。12〓和源氏今川氏族今川貞世の子貞繼名和と稱す。13秀〓流藤原姓淵名氏族上野國佐波郡より起る。北越軍記等、この字を用ふ。ナハ條、及び次條を見よ。14藤原姓美作の名和氏にして、眞庭郡月田邑の名族なり。傳へ云ふ。二階堂行高の子長高、廣繩、廣虎等、伯耆國汗入郡名和湊に居住し、名和を氏とす。兄弟共に後醍醐天皇に奉仕し、名を長年、長重、長生と給はり、忠勤を勵む。長重よn後、名和加賀守輝行に至り、毛利氏に屬し、感狀を賜ふ。其の後、名和又左衞門行勝の子行長等、天正年中、雲州高笹の城に戰敗して、家來と共に眞島郡月田卿に通れ來れるなりと云ふ。名和と郡波相ナワナワナワHII ナワ-ナワリニーニイニ四四一二とを混同せし也。第一項以下、及びナハ條參照。15雜載その他、信濃に此の氏存す。那和ナワ上野、伯耆、播磨等に此の地名存す。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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