鞭(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
一九五一 をあてゝぞ落ち給ふ。然るべき運の極にや、馬を逆さまに倒して頸へ拔てぞ落ち給ふ。兒玉黨·いまだ追付かざりけるに、近江國佐々木庄の住人木村源三成綱と云おお、落合ひて組んでけり。兩風·木の根を嚼む、其の木たほれば、毒龍底に在りて、害を成さんとする喩あり。兒玉黨追懸たり。佐々木待得たり。實に遁れがたくぞ見え給ふ。三位·上に成り給ふ。源三驛ね返し返さんとしけれ共、三位力增也ければ、抑へて更に動さず、刀をぬき、源三が頸を搔けども落ちず。持上げ是を見給へば、鞘ながら脫たれば切れざりけリ。源三成綱は、紀中將成高の四代の孫、木村權頭が子息也。佐々木庄に居住したりけるが、本は小松大臣に奉公せし程に、おくれ奉りて後は、新中納言殿に付き奉りければ、平家の人々には見馴れ奉りたりけり。源平の合戰に、佐々木源三秀能が子息等、皆關東へ下りける間、源三成綱も近く鎌倉へ下りけり。軍兵に催されて上りたれば、越前三位とも組み奉る。成網叶はじと思ければ、下に臥ながら、誰やらんと思ひ奉リ候へば、君にて渡らせ給けり。知りまゐらせて候はんには、爭でか近く參り寄るべき、年比平家に奉公の身なれば、御方こそ參るべきにて侍りつるに、心ならず、親しき者共に詐かし下されて、今戰場に駈向られたり。何の御方も疎の御事は候はね共、殊に見なれ進らせて、御昵じく思ひ奉る。只今角組まれ進らせぬる事よ。同じくは人手に懸かりなんより、嬉しくこそと申す。三位は誰もさこそは思へ、年比日比見馴れし者なれば、不便にも思へ共、軍の道は力なし。今加樣に申すを聞けば、實にさこそ思ふらめとて、跟踏らひ給ける程に、佐々五郞義〓、主從五騎にて波打際を歩ませ來る。成綱是を見て、五郞はよも見放たじ者をと思ひて、三位案じ煩ひたる處に、太刀の管と箕とにかせいて、甲の透間の有けるより、源三·刀をぬき、三位を二刀さす。指れて〓り給けるを、力を入れて驛ね返し、起しも立てず、聽て三位の首を取る。此の世に源三が郞等二人·三位の侍三騎、互に主を育みて、爰にて五人亡びにけり。源三·三位の首を取り、郞等に項の重きは、いかにと問ふ。疵を負ひ給へりと云ふ。三位の刀を取リて見れば、鞘ながら掻きたれば、鞘尻二寸ばかり碎けて、刀の鋒二寸入つて、其疵にてぞ在りける。源三成綱は左手にて頷きゝへ、右の手に首を捧げて、陣に歸る。ゆゝしくぞ見えたりけり」と見ゆるによりて、その然るを知るべし。されど奥地志略は佐々木系圖に據りて、「木村左衞門尉行定は、蒲生の木村に在住す。佐々木經方の二男なり。男兵部少輔定道·相續して、こゝに居り、佐々木の神官職を讓與せらる。行定の母は紀下野守盛宗の女なるを以つて、祖母の姓を稱L.木村權守紀の道政といふ。一時平家に詔訣し、壽永以後に、又源家に屬し、四圖討手の人數に在り、通盛を打取りたリし木村源五重章、同源三成綱、同三郞俊綱、みな此の木村が一族なり、」とあり。猶ほ次項を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)