難波田
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
1桓武平氏村山黨武藏國入間郡難波田邑より起る。武藏七黨系圖に「金子家範-小太郎高範-難波田小太郎-難波田彈正」と載せ、又史料本に「金子六郞家範-高範(難波田小太郞、東鑑金子小太郎)、弟家忠(金子十郞)」と見ゆ。應永の頃、難波田小三郞入道あり。その居所南畑城(下南畑村)は、新編風土記、入間郡卷に「村の中央より少く東よリにて、修驗十王院の住る所其の地なり。其の城趾は何の頃築きしや其のはじめを詳にせず。土人云ふ、天文の頃、上杉家に仕へし難波田彈正憲重が居城なりと。憲重は當國七黨の內、村山黨にて、金子六郞家範の子·難波田小太郞高範の後裔な끔上杉管領に仕へ、當國橫見郡松山の城代となる。天文十四年、憲重等がはからひに因りて、古河の晴氏·上杉憲政に合力ありて、當郡河越に出馬し、大軍をもて、北條上總介が籠りし河越城を責めした、明くる十五年も落城の色見えざりけり。されど城中既に難儀の由、小田原に聞えければ、北條左京太夫氏康後詰として、同年四月二十日、彼の陣に押寄せ一戰ありしを、晴氏、憲政の軍敗北し、憲重が父子三人·其のほとりの燈明寺口にて討死す。法諡を善銀と云ふ。此の人頗る武功の勇士にて、其の頃の軍記等にも、ほゞ露顯せし人なり。憲重討死の後、此の邊總べて北條家の分國として、其の旗下上田周防守某在城せしが、天正十八年の後廢城となれり。今城跡のさまを見るに、四方二町餘の地にて、追手は南の方小名宿畑と云る邊なり。土居及び堀の遺跡は四方に見ゆ。四の方に槽臺の跡あ"、夫より一町餘を隔てゝ、馬場、藏屋舗などの蹟殘れり。東の方三町許に代官屋舗の跡あり、土人の話に、昔は外廓ありて、堀を二重に構へし由、此の邊の小名要害と云へるは、其の名殘なりとぞ。今も此所より西藏院、萬藏院の住める
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)