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雄踏(6)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

6多朝臣又太朝臣に作る。多臣の朝臣右近無望好方-好節-好氏好幸右近傍監-好次好好近秋其の他、文華秀麗集に多〓貞と云ふ人見ゆ。朝臣家の人なるべし。12遠江の多氏飫富條を見よ。13播磨の多氏新抄格勅符に多神の封戶播萬丗五戶と見ゆ。14多神社多氏の氏神多社は神名式に「多坐彌志理都比古神社二座、(並名神大、月次、相甞、新甞)」と載せ、四皇子社は「皇子神命神社、姫皇子神社、小杜神命神社、尾就神命神社(巳上四神、大社皇子神)」とあり。而して天平二年の大和國大稅帳に「太神戶、稻壹萬伍佰伍拾貳束伍把、租壹佰參拾捌東肆把、合壹萬陸佰玖拾東攻把、用伍拾捌東(祭神捌束、神甞酒料伍拾東)、殘壹萬陸佰參拾貳東玖把と載せ、又新抄格勅符に「多神六十戶(大和十戶、播萬卅五戶、遠江十五戶)」と見ゆるにより、如何に廣大なる名詞なりしか、想像するに難からず。多神宮注進狀は、信用し難けれど、有名なれば參考の爲に擧げん。「大宮二座、珍子賢津日靈神尊、皇像瓊玉に坐す。天祖10多宿禰貞觀五年九月紀に「右京人散位外從五位下多臣自然麻呂、姓を宿禰と賜ふ。神八井耳命の苗裔也、」と見ゆ。此の氏は樂人の家にて體源抄に多氏系圖あり。「朝臣·右舞相傳之、神樂同傳之、祖神神武天皇第二御子神八井命、綏靖天皇兄、)·飲鹿(權中納言-入鹿(右大辨宰相)-藤野麿(明經道)-自然贋(將監、甲斐守上總分、此時、始傳歌舞兩道、左右同奉行、一者三十九年、仁和二年死) 14野(將監)-良常(右近將監)-脩文(將監) -脩正-公用(左右各別成時左舞曲於拍光高、寛和二年死、伯耆介)、弟公高、弟武文(右將監)-武好(玄蕃尤)、」又公用の後は其の子「好用(一に好茂に作る、兵衞尉)-政方(周防守)」と見ゆ。政方に至り朝臣姓を賜ふ、第八項を見よ。此の宿禰姓多氏の由來·詳かならざれど、もと多氏と云へば多朝臣家の分流なるや想像するに難からず。又金刺氏と同時に賜姓の事あるを思へば、地方出身の家にて、古く中央なる多氏より分れし家と考へらる。されど後世多朝臣家全く衰徵し、此の家後に朝臣姓を賜ひて、大いに榮え、以つて今日に至る。九項及び十二項を見よ。11多宿禰前項氏と同族なるべし。西宮記第四卷に大和權醫師多宿禰見ゆ。拾芥抄、姓名錐抄には太宿禰を載せたり。宿禰姓のものも猶ほ後世に傳はれるか。12伶人多氏第九項多朝臣の後にて世々伶官たり。其の系圖其の項に云へり。又東鑑に多好方あり、建久四年十一月十二日條に「右近將監多好方、神樂の賞を承く今日飛驒國荒木〓地頭職を以つて政所御下文を成され訖る云々」と好方の事は源平盛衰記卷四十四にも見ゆ。好方の子孫は前述體源抄所載多氏系圖にはなけれど、諸家系圖纂の多氏系圖には「朝臣、氏祖前參議入鹿四代孫、入鹿は大菩薩五代孫也。滋野麻呂。藤野麻呂、明輕6自然麻呂(右近大夫、將監、上總介) -春野-良常(字多判官)-脩文-脩正-公用-好茂-正方(七條判官)-節資-資忠(八條判官)-時方、弟節茂、弟忠方、第近方-成方-成長久責久氏左近勞監近久-節近-久行-久權久春發酵右近大夫탔忠久: :日曜久忠-久政 オボ聖津日雲神尊、神物圓鏡に坐す。若宮四坐、彥皇子神社、皇孫日火靈神尊。姫皇子神社、天媛日火雲神尊。樹森神社、獲玉戈神尊。日月神社、火環神尊。若宮二座子部紳社、皇弟天火子日命、神像統玉に座す。子部神社、皇弟天火子根命、同よ。己上は意富〓に在り。(多朝臣·福宜たり、尼直·祝部たり)。外宮、目原神社、天神高御產靈尊、神像圓鏡に座す。皇妃栲幡千々媛命、座す。己上神社·川邊郷に在り、(肥直·福宜たり)。若宮一座、天孫國照火明命、神像竹箸に座す。攝社一座(官社に非ず)、八劔神社、出雲速蛇建雄命、神像横刀に座す。巳上神社は川邊〓に在り、(川邊連·祝部たり)。葛城高岳宮御宇、神淳名川耳天皇(土)て綏靖と曰ふ)御世、二年辛巳の歳、春中、皇弟神八井耳命は、帝宮より降り、當國春日縣に居り、大宅を造營し、國政を鹽梅す。斯に神議繁境を起し立て、皇祖天神を祭禮し、幣帛を陳し、祝祠を啓す、以つて神祇の恩に答へ、而して神事之典を主る爲。縣主遠祖大日諸命(鴨王命の子)を祀となし、奉仕せしむる也。磯城瑞議宮御宇御間□入彥五十瓊殖天皇(證して崇神と曰ふ)御世、七年度實の歲、冬中、トにより八十萬群神を祭らしむるつゆき、武惠賀前命(神八井耳命五世孫、彥惠賀別命の子たる也)に詔し、神祠を改め作り、珍御子命皇御命、新資天津日瓊玉〓天つ冨鏡劔神等を奉齋し、社地を號け太〓と曰ふ。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今、多神社と云ふ。其の後志賀高穴穗宮御字、稚足彦天皇御世五年乙亥のぬ、初めて武惠賀前命の孫仲津臣武彌依米命の子)に詔し、多の神を祭る主なる爲、多氏を負ふ、社號に依る也。是日天皇·神託により仲津臣に詔し、外感天神皇妃兩神を目原の地に齋祀し奉る、今の目原神社是れ也。泊瀬朝倉宮御字、大泊瀨幼武天皇に及び、詔して六世の孫螺高(或□子、清眼の弟)を諸國に遣はされて、蠶兒を收斂す。誤つて小子を聚め、之を奉貫す。天皇咲ひ、小子を以て螺高に賜ひ、詔して曰ふ、汝宜しく自ら養ふべしと。時に螺姦·卽ち小子を高邊に養ふ。仍て賜りて小子部連と爲る。此の小子等壯に及び、吾が多の〓に住しむ、俗に其處を號けて子部里と云ふ。卽位九年乙巳初春、天皇·靈夢に依り、高に詔し、皇枝彦日根の兩神を子部里に齋祀し奉る、今の子部綽社是れ也。淨御原宮御宇、天浮中原濵眞人天皇(護天武と曰ふ)卽位十三年甲申仲冬、天上の萬氏姓を改めて、分つて八等と爲すの日、多〓眼十一世孫、小錦下品治(蔣敷の子)姓を賜ひ、多朝臣と曰ふ。歷の後和銅五年壬子孟春、正五位上太安麻呂(品治の子也、安麻呂·氏の多を改め、太字に作り、舊氏に復す)、勅を奉じ、古事記三卷を撰み、以つて獻上す。養老四年庚申仲夏、一品舍人親王、勅を奉じ、日本書紀三十卷を撰ぶ。時に安麻呂筆削に預る。既にして功擧る。因つて以つて從四位下を授られ、太氏の長者と爲り、位を加へ民部卿に補せらる。然る後水火知男女神に、延曆五年丙戌孟夏望前、正四位上動六等を授け奉らる。永治改元、辛酉季夏初旬、神位階を進め加へ正一位を授け奉り、位田を充て神稅を納しむ。是より先、弘仁式を制撰するの節、改めて神祇官の神牒に入り、春冬每に祈年月次相甞新甞の官幣に預り、年穀の豐稔を新轉し奉り、を修め天下の安全を鎭護せんと請ひ、敬敬を致す。令旨に應じ、注進を獻ずる右の上狀の如し、謹恐啓白。久安五年己巳三月十三日、禰宜從五位下多朝臣常麻呂、祝部正六位上肥直尙弼、覗部正六位下川邊連泰和、謹上新國府守藤原朝臣殿。」と(五郡神社記引用、原漢文)。文拙劣·後世の僞作なるや想像するに難からず。されど多く古史を敷衍して蛇足を加へしに過ぎざるは猶ほ賞すべし。15多氏については、以下の條、及びオホべ條を見よ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)

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