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雄踏(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

和名抄遠江國敷智郡に雄踏郷あり。一〇五八詮防戰して死す。重綱疵を被り、高野に遁れ居こと三年、後〓水村に移る。宅邊に石の井あり、盛夏も水湛々たり、時の人石井入道と稱す。遂に石井を以て氏とす、居ること數年、佐々木高明類にこれを招くに應世子)の應永二十一年二月死す、時に年一百二萬8重綱の子を權平重治といふ。生地家に屬し、田數箇所を領す。重治の子を彥平治治時といふ。其の子を掃部重之といふ。只一女あり、生地〓澄の庶子元澄を養ひて嗣とし、右馬亟と稱す。元澄五男三女あリ、長子某·江州佐々木氏に屬し、末子某·畠山氏に屬す、二子より四子に至るまで生地氏に仕ふ。是れより分れて三家となり、孰れが嫡庶の家なるか、後世辨ずべからず。重綱五世の孫を、左近大夫武成といふ。生地家督爭論の時、備州の生地安藝忠守澄に屬し、敗亡の後、河州畠山家に倚る。武成の子を左奮門大夫成吉といふ。孫を左奮門尉重吉といふ。重吉·生地石見守政澄に屬し、當村天滿宮の別當職に補せらる。重吉の子を生地久助澄成といふ。子孫今生地と號し、當村に住す。家に生地家の家譜を藏む、」とあり。また生地八百次郞條に「家傳に、其の祖を子孫今猶あり」と本國和名抄遠江國敷智郡に雄踏「家傳に、其の祖を近江オフミアフミ條に詳述す。今漏れたるを補へば、源平盛衰記に近江中將入道蓮淨、また東鑑卷二十九に近江太郞左衞門財.近江三郞兵衞尉、三十に近江三郞左衞門尉、三·、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、三十八に近江四郞左衞門尉氏信、三十一、三十三に近江大夫判官秦綱、三十四に近江大夫、三十五、三十六、四十一、四十七、四十八、五十に近江前司季實、三十六、三十七に近江四郞左衞門尉、四十に近江入道、四十一、四十五に近江大夫判官氏信、四十六に近江孫四郞左衞門尉泰信、五十に近江藏人等見ゆ。又中興系圖に「近江、〓和、村上爲國孫次郞成高麗之、」また、「近江、字多、佐々木定綱末流、長綱稱之、」の二つを載せたり。於部オベ和名抄日向國郡珂郡に於部郷あり。雄家ヲペ和名抄攝津國河邊郡に雄家郷ありて、乎倍と註す。小部ヲペ前條雄家〓は後世小部莊と云ふ又小戶莊ともあり、其の地より起れるか。小家ヲへ和名抄筑後國生葉郡に小家郷あり。麻部ヲペ和名抄肥後國益城郡に麻部郷あり、ヲミベ條を見よ。多オホまた太とも、大とも、意富とも、飫富とも、於保ともあり、後世訛りてオブと云ふ。皇別氏中第一の古族にして、族頗る多く、分派また尠からず。卽ち西海にありては肥國造となり、阿蘇國造となり、大分國造となり、南海には伊豫國造あり。又信濃國造、駿河國造、鬪雞國造、長狹國造、印波國造等、皆此の族にして、奧州には石城國造あり。其の他庶流擧げて數へ難Lo故に多氏とは一族の多きよりの稱なりとの說(久米博士)さへ生ずるに至れり。殊に肥國遣(火國造)は魏志所載耶馬國にして、かの有力なる卑彌呼女王も此の氏の人なるが如し(日本古代史新〓究參照)。多氏は神武天皇の皇子、綏靖天皇の皇兄神八井耳命より出づ。大和國十市郡に飫富〓(和名抄飯富〓と、飯は飫を誤る也)あり、而して同村に神名式所載多坐彌志理都比古神社鎭座するあれば、此の地より發祥したるが如きも、其の分布より考ふれば、或は肥後より起りしにあらずやと考へらる。卽ち神武天皇御東征の後、神八井耳命は嫡長子なるが故に、九州北部を賜はり、手研耳命は庶長子にて、九州南部を賜ひしにあらざるか。蝦夷を征伐し、常陸の仲國造の祖となりし此の氏の建借間命の軍士が、杵島節を歌ひし事、常陸風土記に見ゆ。杵島節は萬葉集、肥前風土記等に出づ、九州肥前の杵島なり。而して杵島山附近に鹿島あリ、建借問命の借間は鹿島に同じく此の地名を負ひ給ひしが如し。又鹿島神宮は其の實·多氏の氏神社なる事、予置既に云へリ(日本古代史新研究四〇五頁)、又信濃國造家は肥後阿蘇氏より出づと傳へられ、下野にも阿蘇氏あり。此等より考ふれば、多氏の本貫は肥後にして、大和十市の飫富は一族の上京して久しく住みしより起りし地とも考へらる。猶ほ大和十市郡の多社の説部が肥直なる事も、多氏の根據が肥の國なりしを語るにあらざるか。

系図・系譜

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