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隈部(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

〓和源氏肥後の豪族にして、大和源氏宇野氏の族と云ふ。隈部系圖に「十代親治-業治(十一代、宇野三良兵衞尉、一に次郞、父と同じく肥後に下向す。水元二年六月去、寂眞居士、日輪寺に葬る)-忠治(十二代、字野源四良、北國合戰に討死行年二十二、法名寂連居士) -直治(十三代、源太良、刑部丞、入道淨堪、阿蘇平九良隆澄の聟)-成治(十四代、刑部左衛門、薙髪して淨觀入道と號す)-詮治(十五代、治部衛門尉、原田長門守直光の聟)-持直(十六代、始めは字野源次良、後に隈部右衞門尉と改む。文永七年二月十日去、行年三十八、法名淨貞。文永元年甲子二月、菊地次良藤原武房は外叔父たるにより、當地の府訓を以つて、授けて隈部氏と賜ふ。又當所白木須賀山に館を築きて居住す。此の時より菊地氏四天王の武士と稱す)-隆忠(十七代、限部源四良、式部大輔、赤星肥前守遠基の聟)-隆朝(十八代、千代丸、式部大輔、なこもの見ゆ。誌法名淨智筑後に於いて計死、二十八)隆治(太良、父より先に早世、依りて家を續がず)、弟朝直(十九代、又次良、上總介、應永四年八月二日去、法名天峯祥頭、平野丑谷山に葬る、一に明應四年とあり)-朝光(源太良)-朝冬(又次良)-源秀(對馬守)」と。次に朝光の弟「長治(二十代、又三良、式部大夫)-朝忠(廿一代、源八、但馬守、法名宗仙居士。宗大和守兼盛の聟。この人·光九寺の碑には、月延龍禪定門、紀伊守朝豐、嘉吉三年癸亥八月廿三日』とあり、系圖誤れり)-忠直(二十二代、常若丸、上總介、一に兵部大輔。法名天曾東人、道間川傍に葬る。赤星彈正少弼藤原爲繼の聟。西迫間に、心峯山光九禪寺を建立す。開山江月現住鍊室金大和尙、歸依僧也。又雪野に於いて、胡桝田五反三畝、寺中境内一丁五反を寄附する也)-親興(治部大夫、宇野氏を嗣ぐ)、弟元成(廿三代、民部少輔、但馬守) -親朝(廿四代、式部大夫、上總介、入道素覺、造音寺に葬る)-運治(上總介、一に兵部少輔)、弟武治(廿五代、式部大種.法名祐岩居士、赤星左京大夫武規の聟)-貞明(廿六代、幸若丸後に豐前守、クマヒトクマフ- クマヘクマへクマヘ-クマミミ二一五四天文八年六月十日去、二十八、靑澤寺に葬る、法名喜竹道悅居士)-觀家(廿七代、式部大輔、上總介、法名高名須天居士、天文十九年六月十九日去、靑澤寺に葬る) -觀永(廿八代、刑部介、但馬守、法名仙空、山鹿兵庫頭藤原重行の聟。天正六年四月十六日、赤星安房守親家·討ち負けて竹道に奔る。是より隈府城主と爲る。其の後、佐々氏と戰ひ、豐前國小倉に於いて自害)-親安(廿九代、式部大輔、一に源次郎、山鹿城村に在城す。山鹿彥次良重行の聟、後に親參と改む)-親元(七良左衞門、法名智仙居士、行年三十四)-元家(傳左衞門、慶安二年七月二日去)-親重(隈部藤五良)、」と見ゆ。一族頗る多し。宇野、土方、大森、阿佐古、長野、富田、仲光等の條を見よ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

系図綜覧(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第二:77頁
  • 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第2:75頁
  • 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション):309頁

系図・系譜

関連論文

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