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隆家(4)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

4文家說殊に菊池系圖に於いては、高木氏の祖文時を經輔の子とすれど、鎭西要略所載の高木系圖には「其の先·大織冠十代正統中關白道隆公より出づ。公の子を文家と曰ふ(文の字·一に隆字に作る)、中納言太宰帥と爲り、三子を生む。仲子を文時と曰ふ、延久帝時、中納言太宰帥と爲る。其の子右近衞中將文貞、其の子太宰大貳秀貞、都督の職に處る再三也嫡子を筑前守貞永と曰ふ、是れ高木、草野、云々等氏の祖也」と載せ、又草野系圖にも「文家(權大納言、初名經輔、遠州波津久良庄流罪)-文時-文貞」とありて、文時、政則等の父を文家とする也。勿論·文家を一に隆家に作るとし、又其の初名を經輔とすれど、此等は必ずや、後世中關白家の系圖に一致せしめんとしての追加に過ぎざらん。然らば此等諸氏の祖は文家なる人にして、益々中關白家の系圖と離るべし。次に菊池風土記所載菊池系圖、經隆の譜に「若宮、菊池三郞、肥後守、寛仁年中異賊襲來の時、紫糸鐘辨笠を着、白葦毛の馬に乘り、博多警固松原を打望み、防戰の時、賊大將綱·箭鋒を畏れず、仍りて足裏を射て討取リ、九州兵の頭と爲る。因りて宣旨を下され、錦旗を賜ひ訖る。出田村に於いて若宮と崇尊し之を祭る」と。この事は、其の父則隆の譜に「延久二年、菊池下向」と云ふに對照して時代全く合はず、殊に一般の菊池系圖の如く、經隆を寬仁度外寇·刀伊の入寇に偉功を立てたる藤原隆家の五代、若しくは四代の孫とすれば、益々採るべきにあらず。よりて續軍書所載菊池系圖は、これを政則の譜に移し、又事蹟通考の如きは2MB隆·兵藤警固太郞云々、寛仁三年異賊襲來の時、經隆·之を防ぎて功ありと。武朝申狀等·之を載せず、故に取らず」と論じて之を省きたれど、此等は何れも經隆を寛仁外寇防禦に偉功をたてたる隆家の五代、或は四代の孫としたる結果、時代符合せざるが爲、變更したるにて、其の事の眞僞は勿論問題なれど、兎に角、原始菊池系圖、經隆の語に此の事ありしや想像するに雖からず。鎭西要略も「寛治元年、異賊船來りて我を亂す、肥後守經 隆に勅して賊徒を追討す」toこれも寛仁としては時代·合はざる爲、寛治としたるに過ぎず。寛治に斯くの如き事件のなかりし事は螢颯抄も云へり。又草野系圖は、高木三郞大夫の弟秀貞に「異賊の爲、討死」と註し、又經隆の譜に「文永四年蒙古陽來の時、論旨を賜ひ退治す、隈府三宮是れ也」と。これも寬仁としては時代合はざる爲、文水の役として、益々時代の合はざる事となりたるものなれど、兎に角、原來·經隆に外寇云々の傳說のありし旁證とするに足らん。思ふに經隆、若しくは秀貞等が、事實·刀伊賊入寇の際、防禦に當りしか、(此の家が、太宰府の府官たりし事實より見れば、朝野群哉、小右記等になしとするも、防禦者の内にありし事は否むべからず。)または伊佐氏傳說の影審を受けしものにして、其の實·平爲賢の事蹟の混亂か(イサ條參照)、兩者何れなるか詳かならざるも、此等の氏は以上によりて、中關白よリ猶ほ古く、鎭西に存在せし豪族なるや明かならんか。筑後木庭氏系圖に據れば、大夫將監則隆の菊池拜領を一條天皇の長德二年とす。又參考する要あるべし。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

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