コンテンツにスキップ

隆分(4)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

4居城石川郡野々市にありて、富樫城とも稱し、鎭守府將軍藤原利仁七世の孫、加賀介家國始めて館を築くと傳へらる。卽三九〇二次に應仁記に「富樫介·五百餘騎」云々、また富樫又次郞等見え、應仁別記に富樫鶴童丸等あり、又長享將軍江州動座着到に「外樣衆·齊藤當助(加賀國守護)」と。また見聞諸家紋に利仁將軍之末富樫介幸高これより前、本願寺蓮如、行脚の僧となリ、北州を回歷し、眞宗〓を勸布す。時に富樫小三郞泰高·御幸塜に在城し、富經次郞政親と善からず。蓮如を御幸塚に迎へて留錫せしめ、且つ秦高は、かの吉崎道場建立の施主となりて、本願寺門派に左祖し、政親は所緣あるを以つて專修門派に左祖す。前項、及び專修寺、本願寺等の條を見よ。次いで朝倉始末記に「富樫介政親と申すは、利仁將軍の後胤として、北斗七星の化現とかや云々、」その滅亡は富樫記に一〓〓に、宮水八郞三郞·扇子追取り通ひに立ち、一拍子を踏み、一聲を揚ぐ。『歡花欲盡春三月、命葉易零秋一時、』と二三返歌ひ、一舞まふ。見聞く人々·鐘の袖を濕ほす。將に畏り申す、緩意ながら、中有の旅ち三州志、野野市條に「利仁將軍より、七世の富樫二郎家國·始めて此の野市に開府有りしより、二十三世の政親まで、此所に五百年余り居館也。平家物語、義經記に、富樫城、宮樫館と云ふ者、即ち此の地也。長享二年、政親睡祀の後、富樫小三郞泰高居り、其の養子植泰、其の子泰俊·相嗣いで居たる處、元急元年五月、賊黨之を火攻し、秦俊其の子二人と、越前の溝江長逸の城に走れり。爾後、兒賊此の館趾に據つて築きしが、天正八年、勝家·賀州の諸堡を攻め屠ふるの時、若林雅樂助、同甚八郞·之に據るを、勝家謀つて之を殺し、勝家姑らく居たること、織田軍記に見ゆ。此の後、不破彦三住せリと云ふ」と載せ、又金城圖志に「城南一里牛·野々市村の南、字鬼窪は富樫氏の館址とす」と見ゆ。次に石川郡倉岳は林〓内知氣寺邑領に在りて、鞍嶽、又倉にに作る。富樫氏·恒は野々市に舘し、土地起れば此の城に堡し、嶮岨を恃んで拒ぐゆへ、國俗に之を富樫の隱居城と呼べリ。長享二年六月に至りて、富樫政親、その子千代松以下、釋賊の爲に亡ぼさる。次に高尾城は富樫莊高尾邑領に在り。足利尾張守高經·敗軍して、多胡城に走リ入しこと、太平記に見ゆ。遣の後百五六十年を經て、長享二年、富樫政親·此の城を修造して保みしが、同年遂に賊の爲に焦土となれり。次に押野城は押野庄押野村に在り、富樫刑部左衞門家善·此の地に住し、押野家善と號す。尊氏公の幕下に隷し、武勇の譽あり。又家善·野々市に大乘寺を建立す。又額谷城は富樫庄額谷邑領にありて、富樫二郞家直の弟家忠住す。又長享二年、大窪家長·河原組の賊を率ゐて、顧谷に陣せしことあり。次に有名なる安宅は、能美郡粟津郷に在リ、「壽永二年五月朔、平軍·加賀國に向ふ時、林光明、富怪家經等·石黑光弘等と合從し、塞を安宅渡に築き、數百弩を設く」と見え、又「平維盛敗軍して、安宅城に保み、橋を引て據守す」とあり。並に盛衰記、平家物語に見ゆ。文治三年三月、源義經が安宅關を佯リて過ぎしことは、盛長私記に見え(この時の富樫氏は秦家と傳へらる)。曆應元年、富樫高家·越後の官將大井田彈正少弱等の大兵に怯えて、阿多賀を退きて、那多城に保みしことは、太平記に見えたり。富樫小三郞泰高(安高)の據りし御幸塚も此の郡に在リ。長享二年、政親滅亡の後、野々市城に移る。粟津〓に在りて、今江城とも稱す。又倶利伽羅は古は礪波郡、今は河北郡に屬す。壽永二年の役、平軍·倶黎伽羅、國見、猿馬場、塔小橋邊に屯すと盛衰記に見え、「觀應元年十二月、桃井直常·上洛の路を拒まんと、富樫氏·津波多驛に兵を調し、翌日倶梨伽羅の鐵に陣す」と太平記理盡抄に見ゆ。「長享二年、賊將越智伯耆·賊衆を率ひて、倶梨伽羅松根に陣す」と、富樫家譜に見ゆ。また江沼郡篠原城は、壽永二年の役に「平兵·曾齊明を先隊の將として賀州に亂入のとき、源軍·篠原に城郭を構ふ」と盛衰記等に見え、曆應元年、越後の官軍·賀州襲入のとき、「富樫高家兵甲五百に將として篠原に陣す」と太平記金勝院本に見ゆ。次に橘山城は橋村領に在り、長享二年、富樫政親の亡ぶるとき、越前の杉若藤左衞門等援兵を率ひて橘に至るを、賊將安藤九郞·大聖寺山より却て之を撃つと。トカシトカシトカシzoi トカシトカシトカス-トカハ三九一四〓四月廿七日文書に戶賀鳴右馬助·見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク