長曾我部(3)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3氏人長岡郡介良村西養寺所藏文書に「土佐國介良庄事、走湯山密嚴院領たるの處、甲乙·濫妨狼藉を致すの條、父甲斐孫四郞入と相共に狼藉の沙汰を相鎭め、代官を居き所務せしむべく、且つ起請の詞を載せ、注進すべし。違犯仁交名の狀·件の如し。元弘三年六月四日、源朝臣。長宗我部新左衞門殿」と(〓簡集)。源朝臣は足利尊氏、新左衞門は豐岡城主秦信國親-元親世親貞-親實親參-親氏-親房親武-親清比江山掃部介-信親親親1盛親し來りて、豐岡城を攻め、悉く屠り磁す。世臣近藤某·孤を竹皮籠に匿し、幡多郡中村に行き、國司一條房家に依託す。房家們みて、能く撫育し、舊領三千貫の食邑を復せしめ、元服を加へ、國親と稱し、宮內少輔と改む。還りて豐岡城に入る。天文二十年、國親·兵を起し、山田城を攻め、其の城を拔く」と。その後、永祿三年、國親·吉良茂辰と長濱合戰の後、幾もなく死す。卽ち千歲山兼序寺の菩提所に葬り、新に一宇を立て、瑞應寺と曰ふ(兼序は一書に、元秀に作3a然れども兼房を以て正と爲す)と(南路志)。又別本系圖に「是れより先、一條殿·當國に下向す、因りて諸郷皆以つて之を奉じて、其の旗下に屬す。長曾我部氏も同じく以つて從ふ焉。(一條殿は當國畑に住す、こうと其の間、行程三ヶ日)。長曾我部信濃守·一條殿に反す、一條殿·兵ををこうに遺はして之を擊つ。長曾我部氏屢々之を拒み、遂に以つて戰敗れて、にろうの山中に達亡す。既にし三ヶ年を歷て、ヲコウの黎民を招き、以つて元の如く本領として安堵す。をこうの郷·之を推し量るに二三萬石の地也。長曾我部氏·再び兵を起し、以つて一條殿と雌雄を決せんと欲し、而してサコリコエの麓の原に出張、以つて大に戰ふ。然れども不利、從兵悉く戰疲れて敗死す。其の家人福富氏·之を諫め、且つ敗兵を集め、以つて又戰ふ。此の間、同國氣良城主横山氏、兵を率してサコリの原に出で、傍に屯す。是れ敢へて志を兩陣に通ずるにあらず。唯合戦を見る爲也。一條殿の兵·これを見て、敵聊か氣を窟し、强ひて競ひ進まず。長曾我部·之を察し、以つて勝に乘り攻め戰ふ。一條殿·遂に以つて敗軍、是より信濃守·郡〓を押領し、以つて土佐半國の主と爲る。其の子宮内少輔元親、國中の不順者を擊ち、押して以つて國守と爲り、既にして國兵を起し、離所を凌ぎ、讃岐國に發向す。其の路次、從兵皆或は米粉を煎じ、以つて嚢に畜へて糧と爲す。土讃の境、嶺獄·連り、道·磐石時ち、因りて粮米を運ぶ能はざる也。讚州に於いて挑み戰ひ、述に國を奪ひ、既にして威を四國に振ふの間、豐臣秀吉·關東小田原を征伐する時、元親·兵を率し以つて從ふ爲。其の子·宮內少輔盛親·父の領國を相續す」云々と見ゆ。元親の偉業南海通記に「幡多郡立石氏の記する所に由るときは、元親十八歲より戰を起すとあれば、弘治二年に當る也。長岡郡高島氏記する所に由るときは、永祿三年度申の五月、元親廿二歲のとき、長濱の戰より弓矢を取リ初めらる。其の時高島三郞左衞門供奉して武功を顯はすと云へり。今兩說を擧げて考に備ふ。長曾我部元親創業記。永祿三年度申六月十五日に、元親の父長曾我部宮内入道覺世沒して、其の業を繼ぎ、父の裏に居らずして、長濱、萠野の二口より打つて出で、數度の戰に勝つて、本山方の城十三ヶ所を拔き、朝倉一城に縮めて三年目に、本山退散し、瓜生野と云ふ險所に入り、川隈を守りて七年相持つ。其の內に梅慶も、式部少輔も死して、其の子岡將監兄弟二人在りて瓜生野を守る。巢が母は元親の姊なれば和平をなして、瓜生野を殘落せしめ、長岡、土佐、吾川の三郡を治む。土佐七人の郡司と云ふは、本山、吉良、大比羅、長曾我部、香言我部、安岐、津 チヤウソチヤウソ-チヤウナ6家臣元親家老分·吉田備中守、同次郞左衞門、久武肥後守、久武兄內藏助、中島大和守、同右兵衞尉、桑名藤藏人、桑名丹後守、江村備後守、吉田伊賀守、國吉甚左衞門、姫倉豐前守、南岡左衞門大夫、福富飛驒守、馬場因幡守以上十五人又若手家老分·久武第内蔵助、江村孫左衞門、同掃部助、桑名朝次兵衞、野田甚左衞門、桑名太郞左衞門、同將監、南岡四郞兵衞、野中三郞左衞門、國吉三郞兵衝、山川五郞左衞門、橫山九郞兵衞、姫倉太郞左衞門、吉田彌右衞門、同三郞左衞門、中內源兵衞、十市新右衞門。以上十七人。前後合三十二人。此れ家老分也。其の外、外樣の大身猶ほ多し。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)