鎬禪道
概要
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姓氏家系大辞典
二八七二心、入道日新齋と號す。實は伊作善久の男、永祿十一年戊辰十二月十三日、加世田に於いて死す、年七十七、法名常潤、梅岳寺と號す。母は新納駿河守是久の女)、その妹は島津治部大輔忠將の室、その弟は儈となり、長德軒と稱す。享祿中、駿河國に赴き、今川氏親に仕へ、後に北條氏綱に仕ふ。子孫後藤と稱す」と。忠良の子は貴久にして、宗家を嗣ぐ。又忠良の實父善久は、友久の弟久逸の子にて、法名多實寺越山と云ふ。その居城は田布適〓尾下村にありて、ヶ城と云ふ。地理纂考に「島津友久は島津忠國の庶長子なり。故に家を襲がず。當邑,及び阿多を分封して、是を相州家と稱す。同運久、同忠良(忠良は島津善久の子なり。運久留子なし、故に養つて子とし、伊作相州家を兼て繼ぐ)の居城にて、島津貴久は此の城にて誕生す」と又阿多郡阿多掃宮崎村に日吉神社あり。「鮫島氏建立すと。又天文十七年再興の棟札に、當地頭島津治部左衞門尉忠弘とあり。又熊野神社神鏡に、島津藤原忠孝とあり。忠幸、後運久と改名す。島津忠國の二男にて、相摸守忠良の養父なリ。又二八七二なすにより、十一代忠昌·日向を鎭めんとして、忠廉に飫肥福島を與ふ。これよリ忠廉·帖佐を去つて飫肥に移る、文明十八年の事なりと。地理纂考、諸縣郡末吉郷龜鶴城條に궂正年中、飫肥城主島津豐後忠親、此の地を領す」と。又「黑木〓(伊佐郡)は島津主計久寶舊食邑なり。始祖を島津豐後季久といふ。島津久豐の第三子なり。豐州家と號す。初め大隅國帖佐を領す。文明十八年、十一代島津忠昌·季久の子修理忠廉に、日向國飫肥福島を與ふ。忠廉より第四世豐後忠親、伊東義祐等と屢々戰せて、永祿十一年遂に其の地を失ひ、都之城篠池に寓居す。島津義久·忠親が子豐後朝久に大隅國平房市成を與ふ。朝久が子豐後久賀が時、寛永十一年黑木に轉ず。(平房は市成の隣邑、百引に平房村ある、是なり)」と見ゆ。「季久(豐後守)-忠廉(修理亮)-忠朝(豐後守)-忠廣(次郞三郞、豐後守)-忠親(豐後守)-朝久(豐後)-久賀(豐後)」也。文明の比、平田右馬重宗·肝付郡串良の院司にて、其の子兼宗·串良岩弘の城主たり。明應四年四月、豐後守思朝(日向貝殻崎城は往古鮫島氏居城にして、數世相續して、國命に應ぜざりしが、貴久に至り、遂に降伏す、」と。又花瀨村鶏之城は島津運久居城なりと傳又中津野村諏方神社には「寶德三年七月、越前守藤原經久造立」の棟札あり。運久の養子相摸入道忠良(日新齋)·智勇を兼ね、始良郡帖佐平山城を攻む。當時、此の城には川上氏據りて、出水の薩州家に屬す。故に實久が族、島津善左衞門安久·授兵を領して川上氏を助く。忠良奮戰して、安久等を斬り、進みて新城を燒き、川上忠直(邊川氏)を斬り、島津下野昌久をして地頭たらしむ。よりて十四代勝久·其の功を賞し、忠良に伊集院を奥ふ。七年四月、昌久·加治木の領主伊地知周防重貞と謀つて叛く。六月、忠良又加治木を攻め拔きて重貞を殺し、又當城を拔きて昌久をも殺すと也。20佐土原藩十五代貴久の弟忠將の後なリ。忠將は右馬頭たり、法名大安心翁。大隅に封ぜられ、〓水城を治所とす。永祿同五、肝付河内守、顧寢右近將監、伊地知某等、隅州廻城を押領して貴久に叛す。七月十二日、忠將·力戰して死す。法名心論大安也。その子以久(征久)·又四郞、また右馬頭たり。又幸久に作る。入道宗恕と云ふ。慶長八年十月、郡珂郡佐土原二萬七千七十石餘を賜ひ、諸侯に列せらる。その子彰久·又四郞、右衞門尉、朝鮮の役に戰死す。その弟又六重時は、入來院彈正重豐の養子、關ヶ原に戰死す。その弟右馬頭忠興·家を嗣ぐ。寛政系譜、並に武鑑等に「源以久(鳥津右馬頭)-忠興(右馬頭)-久雄(右馬頭) -忠高(又四郞、飛驒守、始め久英)-惟久(万吉郞、左京、淡路守、始め忠充)ー忠雅(又四郞、但馬守、加賀守、始め忠就)-久柄(淡路守、但馬守、源氏に改む) -忠持(淡路守)-忠徹(飛驒守)-忠寬(淡路守、四品、日向那珂郡佐土原二萬七千七十石餘)」-忠亮-忠廣現今伯爵。21新城家前項以久の子彰久の後にして菱苅郡新城郷を領す。地理纂考に「島津要人久寛が舊食邑なり。其の始祖を島津右馬忠將と云ふ、貴久の弟なり。其の子右馬以久嗣ぐ。以久の嗣子守右衞門彰久、室は義久の第二女なり。義久·影久の室に鹿屋を割き與ふ。世に新城翁主と稱す。翁主·相摸忠仍(時久)を生む。忠仍の第四子を大和久章といふ、家久の女を室とす。斯くて久章の室に粧田千石を與ふ。寛永十三年、新城翁主請ふて、久章の家を立てゝ、己が粧田を久章に譲り、久章の室の領とを併せ、四千七百石を領せしめ、垂水の次門として鹿屋に住す。久章罪ありて、正保二年十二月、谷山に於て殺され、其の領地沒收せらる。久章子あり、又助忠〓といふ。父の事に座して、其の後たることを得ず。忠〓·母は島津光久の妹なる故、寛宥し、母の粧田を與へ、水應二年·宗家島津美作久憲が義弟とし、更に家を立つ。忠〓沒して、寛文二年光久第十男權十郞忠顯をして、忠〓が後を嗣がしめ、新城を奥ふ」to又「松尾城は徃古埀水頷主伊地知氏の居城なり。文祿中、伊集院右衞門忠練是を領し、其の後、新城翁主·城内の館に居住す。正保二年、領主島津久章罪ありて沒收せられ、大山伊豫地頭たり。既にして久章が子島津又助忠〓を以つて再び領主とす」と見ゆ。又同郡垂水〓市木村垂水城は、文祿四年、川田義明·垂水の地頭に任じ、當城に在 リ。慶長四年、島津右馬以久·種子島より轉じて、垂水に移され、當城を治所とす。又四郞久數まで、三代在城にて、慶長十六年同所田上村に移る」と云ふ。22宮城家第十五代貴久の第左衞門尉尙久(又五郞、法名一枝曇秀)の後也。初め鹿籠を領す。慶長五年に至り、其の子圖書頭忠長(又五郞)に至り、伊佐郡宮之城〓を領す。その子河内守忠信、弟下野守久元、その子圖書頭久通なりと。河邊部南方〓秋目村九玉神社元亀二年の棟札に「地頭島津朝臣尙久」とあり。23郡答院家十六代義久の弟左衞門財歲久(又六郞、ン條參照。伊佐郡梅君ヶ城に據る、入道晴養)の後也ケタフヰに鶴ケ城と云ふ。その子三郞四郞忠隣忠親)、天正十五年四月十七日、日向根白坂の戰に死す。その子下總守常久(又吉、常陸介)也地理纂考、始羅郡帖佐婦條に「平松神社、文條元年壬辰七月、島津左衞門歲久入道晴養自盡の地なるを以つて、十六代義久·慶長四年、一寺を創建し、心岳寺と稱せしを、明治三年、其の地に一社を建立し、平松神社と號す、〓久の靈魂を祭る」と見ゆ。24木康康歲久の弟中務大輔家久(昌久、又七郞)の後にて、系圖に「家久(天正十五年、佐土原にて死)-豐久(忠豐、又1時代中務少輔、從五下、關ヶ原戰死)-忠榮(中務少輔)-久惟(島津安藝)」と見え、地理纂考に「平泉村平泉城。永祿十年十一月、山門院の領主島津義虎をして守らしむ。既にして義虎是を辭し、其の後島津又七郞家久是を守る」と。又「鹿兒島郡永吉〓。天文二年、當邑を永吉と名乘る。島津中務忠榮が舊領なり。按ずるに、慶長十七年·忠榮初めて是を領し、爾來累代傳領す。忠榮は、中務大輪豐久の嗣子なり。弟にて、中務家久と云ふ。豐久乃父は義弘の季慶長五年關ケ原の役に戰死す。同九年、中納言家久·忠榮をして、豐久の後嗣とす。忠榮は喜入攝津忠續の長子三郞四郞なり」と見ゆ。25家紋見聞諸家紋に、品比佐土原分家津寛政系譜に「丸に十文字、牡丹、桐.佐土原は外に鳩酸草」とあり。又紋請帳に彎十文字と見ゆるにつき、沼田氏は二家古墨來繪卷を見るも、見聞諸家紋を見るも、家康が贈る所の津輕家所藏關原戰圖の屏風を見るも、寛永十四年開店に係る指物揃を見るも、慶安二年開版の大名武士鑑を見るも、いづれも筆勢を示せる十文字紋許にして、響の形をせる十文字紋はなし」と26年、肥後肥前の島津氏將軍家政所下文に藤野文書、「菊池莊領家職替文保元として、日向國高知尾莊、肥前國松浦莊内早湊村等」を、島津道義に預知せしむ(史徵墨寶考證)と。其の他、キタチ、サガラ、龍造寺、有馬等の條參照。27播磨の島津氏第二十九項、及びエチゼン條を見よ。島津文書、建武五年のものに「當國下揖保庄西方地頭島津周防五郞三郞忠兼云々」と。延元中、忠兼、武家方として活動せし事、南山巡狩錄に見ゆ。越前島津家の人也。島津又武鑑に島津家宗家28若狭島津家忠久の第·忠季の後にして、島津系圖に「忠季(若梅守)-忠經(左衞門尉」to忠季·一本に周防七郞と載せ、又三方兵衛尉とあり。若狹の守護となる。若狭國守護職次第に「右大將賴朝の御代、津々見右衞門次郞忠季を守護とし、當一圓を保ち、之を知行せしむ。建久七年九月一日、守護·本下司稻庭權守時定跡·これを拜領す。但し正治の御下知、遠敷郡、井に三方郡、此の内十六箇所、藤民部大夫行光朝臣、建仁三年十二月廿二日、これを給ふと雖も、元久元年八月廿九日、忠季·これを返し給ひ了る。又遠數郡内九箇所に於いては、左兵衞尉藤原家長(中條氏)、建仁三年十二月廿二日これを給ふ。然りと雖も、忠季後年に還補し了る。年紀を知らず」とo次に「次郞兵衞忠季子息三郞兵衞忠時、承久三年安堵、云々」と。又「今富名御代官若狹尼云々(若称尼は忠季後家)、」などあ!。又若狭國稅所今富名領主代々次第に一稻庭權守時定、建仁二年二月八日、四津にて死去云々建久七年八月に得替。鎌倉右大將賴朝、御勘氣によりて所領ともに悉くにめされて、四津庄ばかりかつみやう處に給ふ。よのところの所領は、みな次郞兵衞尉忠季(よりともの御めのと子と云ふ也)に拜領。今富公文阿彌陀坊、建久七年九月一日より建仁三年八月三日まで、これを知行す」とaまた「次郞兵衞尉忠季·逮捕せらる。元久元年八月廿九日より承久三年六月の制日まで之を知行す」と。又「多田三郞兵衞尉忠時(たゝすゑ入道のちやくしなり)。承久三年七月より、寛喜二年六月まで、代官古津新太郎時經、公文了京。此の忠時は、寛喜元年に在京の時、陰陽頭を殺害するによりて、所領をめさるゝ時、稅所今富名は武藏守經時御拜領、御代官をば忠時の母、わかさのあまごぜむ申給ひ了る」と見ゆ。忠季·承久三年宇治川に戰死し、其の子忠時·その職を襲ひしも、寛喜元年、罪ありて沒收せらる。されど島津氏は猶ほ此の後も當國にありて、多少勢力ありしが如し。有名なる島津華山は、此の後にして、その墓誌銘に「先生·諱は義張、字は琴玉、華山と號す。姓は島津氏、其の先世々若狹に在り。先生の祖を忠望と日ふ。始めて京師に通り、顏父頼重に至リ、若狭に隱れ、而して義忠を生む。義忠·兵法に通じ、兼ねて擊劔刺槍技を善くす。衷良と號し、後に京都に移り、後藤氏を娶リ、四女を生む、皆天す。晩に先生を生み、面して明年、後藤氏卒す。其の明年裏良も亦卒す。先生始めて三歲也裏良に友あり、京極高安と曰ふ。先生の孤なるを愍み、妻千葉氏と謀りて、先生を養ひて子と爲す」云々と。島津華山は、諸家人物誌、平安幕所集等に據るに、京都の漢學者、名は義張、字は琴玉、左馬助と稱す。晩年阿波國那賀郡平島に住す。寛政六年七月廿三日發す。讚海詩別、阿山發書、華山詩稿等の著ありと。華山に薫陶せられし人には、平島館の名儒富本濟仲、其の子長雲、及び高橋赤水、富本美景、富山長右衞門等あり(後藤捷一)。29越前島津家忠久の子、忠義の弟忠綱を祖とす。其の後は系圖に「豐後左衞門尉忠綱(周防守)-豐後守忠景(大夫判官)-常陸分忠宗(大夫判官、知覽院祖)-常陸介忠秀(大夫判官)-五郞左衞門尉忠繼」と見ゆ。此の流の事はエチゼン條第四項 シマツ越前島津(七八三頁)、ウル、ウシユク條、本條第二十七項、及び知覧(チラミ)等の條に詳か也。子孫男爵を賜ふ。30越後の島津氏忠久·當國に所領を有せし事、前に云へリ。後世當國島津氏は長尾氏に仕ふ。謙信配下城持大將衆に島津淡路守あり。又景勝配下の將に島津玄蕃頭あり。又島津左京亮は岩船に居り、出羽庄内尾城を、島津矩久に守らしむ(オホヤマ條參照)事など諸書に見ゆ。德川時代、米澤上杉藩の重臣たり。31伊勢の島津氏忠久は又當國に領土を有す。須可、御庄、波出、御厨の地頭職也。32信濃の島津氏島津氏は、又當國鹽田庄、承久三年より更に大田庄の地頭職となる。後世諏訪明神を崇敬し、薩隅に諏訪社の多きは、これに據ると傳へらる。薩摩諏訪神社記錄に「信州本社諏訪大明神を當國へ御勸請の御由來御元祖忠久公·信濃國鹽田大田の兩庄御地頭職に御補任なされ、五代貞久公御傳領成され、貞久公·信州に御下國の時、本社諏訪大明神を薩州山門院に請け下し給ひ、總社と御崇めなされ候云々」と。33相摸の島津氏證菩提寺、文和三年十月廿日文書に「島津周防守忠兼(越前家申す。相摸國山內岩瀬御代官殺害の事、仰せ下さるゝ旨に任せ、實否を相尋ね候處、云々。忠兼代官池田右衞門尉以下輩を殺害す云々」と。下つて永祿中、津孫四郞、桑原〓を領す、小田原分限帳に見えたり。34武藏の島津氏新編風土記、久良岐郡條に「諸家系圖に云ふ、島津主水正が男左京大夫某·遠山丹後守直景が婚屬にて江戶に住す。祖父永久よりこのかた、武州金澤邊を領せりと。今郡内、谷津、寺前、町屋、洲崎、寺分、社家分、平分等の村々を、〓して金澤と稱し、最も景勝の地なり」と。又小田原役帳に「島津又次郞が知行稻毛久本十四貫二百文云々」と。35伴姓伴氏系圖に「島津云々、皆伴氏也と見えたり。36丹後の島津氏奥謝郡の豪族にして、伊根城(伊根村龜島の亀山)に據る。天正中、島津藤兵衞、同伊織居城せしが、十年九月滅亡す。此の島津氏は、貞和年中、加佐郡にありし島津下野守の末葉なりと。37但馬の島津氏但馬國太田文に「朝來郡、當國二宮粟鹿大社(領家染殿法印跡)、百町七反二百二十六歩(地頭島津常陸入道)」と見ゆ。38陸前の島津氏仙臺城は、もと千代と云ひ、島津陸奥守·居城し、後に四國に移ると傳ふ。觀蹟聞老志に「仙臺城云々、中古·島津陸奥守なる者、始め茂嶺城に居り、後に此の城に遷る。文治中、結城七郞朝光·此に居る」と。容易に信じ難Lo又榴岡の天神宮は、文永元年甲子、島津某なる者、之を宮城郡國分莊小俵邑玉碕山中に移すと傳へらる。39甲斐の島津氏忠久·建曆年間、當國波加利新庄を賜ふ。その後也。40雜載その他、天文中に松山領主島津忠親、又神前城主島津駿河忠悟(貴久に降る)、又今和泉郷岩本村大和神社は島津大和久章の靈を崇むと。星野系圖に、源助能の室は薩州島津忠宗の女。肝付系圖に、兼興の室は飫肥城主島津豐後守忠朝の弟左馬助久〓の女。有馬世譜に、貴純の母は島津久豐の女なりと。斯の如き類は猶ほ頗る多し。又現今兩公爵家、伯爵家の外、大隅重富邑主(舊一萬四千六十石)島津珍彥は男爵を賜ふき久光·初め此の家の山城忠公の(地頭島津常陸入當國文和三年十後を嗣き、後に宗家に歸る。珍彥は久光の三男にして、その子を壯之助と云ふ。此の家は越前家の後也。エチゼン、チラミ等の條を見よ。又日向都城邑主(三萬九千六百三十七石)島津久寬も男爵を賜ふ。その子を久家と云ふ。キタガウ條を見よ。その他、島津忠欽(その子雄五郞)、島津長丸、島津準彥、島津久明(鹿兒島市照國神社宮司)、島津諄之助、島津貴暢の六家も、島津藩の分家にして、皆男爵を賜ふ。又極津等に存し、又羽前置賜郡の人に島津利右衞門あり、高梨條を見よ。又鯖江藩に島津謙吉、島津源馬等あり、越前家の後か。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)