鎌倉(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2桓武平氏平忠通、鎭守府將軍となりて、鎌倉郡にあり。其の子最通·よりて鎌倉氏を稱すと云ふ。尊卑分脈には「高望王-常陸少掾良茂-下總介良正-公雅弟致成(或本公雅の子云々、瀧口太郞)-景成(鎌倉權守)-景正(鎌倉權五郞、御靈大明神是也)-權八郞景經-景忠(大庭太郞)、其の弟最長-景時(梶原平三)」と見え、桓武平氏系圖には「高望王-良文(村岡五郞)-忠賴-忠通(村岡五郞)-景道(平子民部大夫)-景政(鎌倉權五郞)」また景道の弟「最名(鎌倉安藝權守)」とあリ。三浦系圖には「忠通(村岡五郞)-章名(甲斐大守、一說·此の人なし)-忠通-章名と又諸家系圖纂は尊卑分脈に同じく、面して良正の系に「在右可勘、此說不用」と載せ、又所引東記には「忠通(陸奥介) -景道(鎌倉權大夫)」と見え、其の出自區々にして一定せず。蓋し後世の僞作にて、鎌倉別の後にあらざるか。陸奥話記に「修理少進藤原景通(六騎のこ云々、藤原景季は最通の子也、年二十餘、性·言語少く、騎射を善くす云々」と。これ或は、此の氏の祖先なるべし。然らば藤姓を冒せし事もあるか。權五郞の事は後三年記に「相摸の國の住人鎌倉の權五郞景正といふ者あり。先祖より聞え高きつはものなり。年樣に十六歲にして、大軍の前にありて命をすてゝたゝかふ間に、征矢にて右の目を射させ20首を射貫きて、兜の鉢付の板に射付けられぬ。矢をおりかけて當の矢を射て敵を射とりつ。さてのち、退き歸りて兜をぬぎて、景正手負たりとて、のけざまにふしぬ。同國のつはもの三浦の平太郞爲次といふものあり。これも聞え高き者なり。つらぬきをはきながら、景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、爲次がくさずりをとらイーあげさまにつかんとす。爲次驚いて、こはいかに、などかくはするぞと云小。景正がいふやう、弓箭にあたりて死するは、つはものゝのぞむところなり、いかでか生ながら足にてつらをふまるゝ事あらん。しかじ汝をかたきとして、われ爰にて死なんといふ。爲次舌をまきていふ事なし。峠をかゞめ顔を抑へて矢をぬきつ。多くの人·是を見聞き、景正が功名をいよ〓〓ならびなし」とa又平家物語に「鎌倉云々、」源平盛衰記に「鎌倉權五郞景政が末葉大場三郞景親を大將軍として云々、」また鎌倉黨の語あリ。大庭(高座郡)、股野、長江、梶原等は此の後にして、又長尾、香川等も此の齋と云ふ。各條を見よ。又謙倉東慶寺大工棟梁金子氏文書に鎌倉源二三郞見ゆ。又土佐軍記に香宗我部氏を權五郞景政の末也とす。磐城國石川郡に權五郎館Gi田村大字赤羽)あり、一名一夜館と稱し、鎌倉權五郞一夜に藥く所にして、將軍源頼義の留りたる館なりと。後賴義義家と共に安倍の一族を亡ぼし、諸將士を會し、此に英勇の士を置き東夷を鎭せしめ、白河關を押へしめしと云傳ふれど疑はし。最通景久-景長-景〓健介權大夫:景村景明-景宗-景義達會四郎大夫大-景成-諸食補守四五六景政-最繼-義景小大阪長江太郎 カマクラカマクラ-カマサハカマシタ-カマタ一七〇六3但馬の鎌倉氏太田文に「朝來郡云々日海院宮御領(史本六字無)二條院勅旨田拾町、地頭鎌倉新左衞門尉女子」と見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)
華族類別譜(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)附録 巻之1:7頁、10頁、108頁、109頁
- 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)附録 巻之2:24頁
文献(NDLサーチ・Amazon)
- 湯山学『鎌倉党 鎌倉氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏・長江氏・小坂氏・香河氏・柳下氏・金井氏・豊田氏・俣野氏・深沢氏』戎光祥出版(2010) 国立国会図書館サーチ Amazon
- 倉林義正「鎌倉氏にお答えする」季刊 3-4、60頁(1958) 国立国会図書館サーチ