針生(桓武平氏三浦氏族)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
桓武平氏三浦氏族岩代國會津郡針生邑より起る。伊達世臣譜に「著名盛滋·盛舜(アシナ條參照)を養ひし後に、男を生み、之を民部盛幸と稱す。針生庄に住するが故に、針生を以つて氏とす爲。子小太郞盛秋、その子丑松盛信·永祿八年、長沼の役に従ふ。天正十七年、葦名家の一族猪苗代彈正盛國·盛隆の子盛重に反して、伊達家に從ふ。時に盛重·歲十三、故に盛信を以つて將と爲す。是し歲六月、貞山公と摺上原に戰ふ。盛信自ら奮擊力戰し、盛信の馬·敵の爲に射らる。觀族針生豐後某·來リ救ふ。敵の攻むる甚だ急、是に於いて豐後·死し、盛信·殿たり。是に於いて貞山公·會津城に入る。是の歳、盛信·是の事を以つて太閤秀吉に告ぐ是の時盛信·始めて秀吉に拜謁盛信·是の事を以つて太閤秀吉是の時盛信·始めて秀吉に拜謁近江國高島郡に針畑庄あ別會·權足彥天皇成針問國を中分して之を給ふ。仍りて針問別と號す。男阿良都命·一名伊許自別」と見え(佐伯條參照)、國造本紀には「針問國遣志賀高穴穂(成務)朝、稻背入彥命の孫伊許自別命を國造と定め賜ふ」とあDo蓋し御諸別命·此の地の別となり、其の子伊許自別に至り國造に補せられたる也。景行皇后播磨稻日太郞姫の遺跡か。當國造の外、國造本紀に又、針間鴨國造を載せ「成務天皇の御世、上毛野同祖、御穗別命の兒市入別命を國造に定め賜ごと見ゆ。而して一說·此の御糖別は當國造の祖御諸別と同人かとの說あり。上毛野氏の祖人にも御諸別なる人見え(上毛野條參照)、また鴨國造の氏神住吉社の調査、及び酒見、酒人などの諸氏を併せ考ふれば(住吉、酒見、酒人、鴨條參順)、鴨國造も當國遺と同族にして、後に分離せしものかとも思はる。されど鴨國造の族裔住吉氏は後世に至るも、上毛野氏と稱し(スミヨシ條參照)、又鴨國と播磨國とは古く別なれば、猶ほ國造本紀に從ひて、御穗と御諸とを別人とすべきか。後考を俟つ。此の國造の治所は飾磨郡にして、印達掃日女道丘の邊か。而して式内射權兵主神社(二座)は其の氏神と考へらる。従二て、播磨風土紀、飾磨郡安相里條にコロロ太(〓神)天皇·但馬よリ巡行の時、道に綠リ御刷(御使ひ人)を權さず、故に陰山前と號す。仍ち國造豐忍別命·象の名をる。時に但馬國造阿胡尼命·此に依りて罪を救されんと申し給ひて、卽ち廿千代の鹽代田を奉り、但馬國朝來人を飼ひて、此處に來り居らしむ」とある豐忍別は此の國造なるべく、又釋紀引用播磨風またに「息長帶日女命·新羅國を平げんと欲し下り坐す時、衆神に畸り給ふ。爾つゆ、國堅大神の子爾保都比賣命·國造石坂比賣命に著き、〓へて曰はく、好く我が前を治め奉らば、我爾に善驗を出さん云々」とあるも此の國造族の人と考へらる。而して風土記、加茂郡楢原里條に「品太(應神)天皇の世、大伴連等·此の處を請ふ時、國造黑田別を喚び給ひて、地形を問ひ給ふ」など見ゆる黒田別は鴨國造の族ならん。次に仁德紀十六年條に「播磨國造の祖·速待」とあるは、此の國造にして。風土記、賀茂郡楢原里條に「玉野村と云ふ所以は、意奚、袁奚二皇子等、美嚢郡志澤里高宮に坐し、山部小額を遣はして、國造許麻の女根日女命を誹へ給ふ」とあるは、鴨國造家の人と考へらる。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)