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里見(8)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

8總知の里見氏系圖に「義實-成義(刑部少輔、左衞門佐)-義通(刑部少霜、母は三浦橫須賀安藝守連秀の女)-義豐(義堯の爲に害さる)-義堯(母は三浦正木盛氏の女、實は義通の弟·次郞買堯の子。左馬頭)-義弘(房州上總兩國の府君。從四五、左馬頭、始めて上總國佐貫城を居所と爲し、後移りて房州稻村に居る。茲れ時に天文七年十月七日、下總國高野臺に於いて、小弓御所義明公の爲に、北條氏綱と合戰す。此れより下總、井に鎌倉に於いて合戰止まず)-義賴(房州館山城に住居、此の時、北條家と和睦。母は鎌倉公方義氏の女) -義康從四位、中將、慶長八年卒)-忠義(安房守。慶長十九九.伯州黑塜に配流、斷絕)-女子(大久保右京亮の室)」と載せ、舊族鳥海氏の家譜に「義實公·十九歲にして安扇國に渡る。時に嘉吉元年なり。文安二年、東條重永を討ちて之を減し、安四勝峰を降す。同三年、上總國大田木城主、正木彈正を降す。二世義成公·始めて里見氏を稱す、時に寛正三年なり。文明三年、峰上、玉木、久留里、萬喜、勝浦、池和田、眞里谷、窪田、東金、佐貫、椎津の十一城を攻めて、之を略す。明應二年、下總木之內城を陷しいる。是より先、文明十八年、稻村城の建築を起す、」と。また藩翰譜に「刑部大輔成義、上總の國に發向し、先づ萩生の城を落し、國人等を打從へ、終に安房上總兩國を合はせ領す。其の子上總介義通、上總國久保田の城に在リ、義通が卒せし時、(永正十七年二月朔日、三十八歲にて卒すと云ふ)、其の子太郞義豐·わづかに五歲なりしかば、彼が十五歲に及ばんまで國の事を執り行へとて、會弟左衞門督實堯に國を讓る。實堯·兄が讓を受け、安房の國稻村の城に在りて、おのが嫡子刑部大輔義堯を大將とし、兵船を泛べて相摸國に押渡り、北條と戰ひ、又義堯をして上總國久留里の城を守らせ、太郞義豐·成人に及べども、圖を讓らんとも聞えす。義豐·深く恨みて、天文二年七月廿七日、稻村の城を襲ひて實變を討つ(實堯が死せし時、五十三歲と云ふ。然らば義通と同年なり。月劣りにてありしにや)。實堯が男義堯、軍を起して義豐と戰ひ、明れば三年四月六日、終に稻村の城を攻め落し、義豐を討ちて、安房上總を領し、御弓の御所の味方として、同じき七年の冬、北條左京大夫氏綱と下總國鴻の臺に戰ふ。義明かけ負けて討たれ給ひ、義堯も散々に戰つて引返す。これより常に北條と戰ふこと止む時なく、終に下總の國をも合はせ、武藏、相摸の地を、此處彼處と打隨へ(武藏國豐島郡淺草の觀音堂は、義堯が再興せし所也と云ふ)、子息左馬〓義弘に國を讓り、自らは入道して正五阿彌と號し、久留里の城に籠リ居たり(天正二年六月朔日、六十三歲にて卒せしといふ)。左馬頭義弘は父に継ぎ、弘治二年、相摸國三浦の地に押渡りて北條が勢を打破リ(城が島に戰ひしとなり)永祿四年の春、上杉管領入道謙信、北條を攻むると聞きて、正木大膳亮に軍勢を附けて上杉に加勢し、同じき七年正月、武藏岩槻の住人太田美守資政を助けんとて、二千餘騎を引率し、鴻の臺に出て向ひて、北條氏康氏政父子と戰ふ。初度の軍に北條を打破リ、味方悉くに勝ち誇りて、終に負軍し、侍大將十七人まで討たれ、散々に戰ひなつて引返す。義弘が乘つたる椎津黒といふ馬、殊の外に疲る。椎津掃部これを見て急ぎ馬より飛で下り、義弘をぞ乘せたりける。平野越後たゞ一人檜提げて隨ふ。味方負軍しつと聞えしかば、上總の國に留りし堀内帶刀、須田將監、五十騎を引具して義弘を迎へ、久留里の城に入る。討ち漏されたる軍勢等、義弘が乘捨てたる馬を見て、大將うたれ給ひぬと云ふまゝに、米下、舍人等の城·防ぎ戰ふまでもなく、敵のために落さる。是心年、又上總の國池の和田の城を攻め落され、多賀藏人、會弟兵衞佐の二人討死す。下總の國人等、皆義弘に叛いて北條に從ふ。武藏、相摸の地は云ふに及はず。同じき九年、義弘·加藤伊賀守(佐貫城に在)を大將として、三浦の地を攻め破る。明れば十年、北條·太田新六郞に軍勢を附けて上總の國に向ふ、義弘自ら三舟山に戰ひ、大將太田を初めとして首數百を打取る。天正五年、義弘、北條、互に中直りす。明くる六年の五月義弘卒す。嫡子太郞義頼には安房國、次男梅王丸には上總國を讓る。太郞義類·父死して後、上總の國佐貫の城を襲ひ、梅王丸を生捕て(梅王丸が傅加藤伊賀守と心を合はせ、梅王丸を虜にして、高瀧左に預けしなり)、上總の國を併せ領し、安房の國岡本の城に住す、」と。古戰錄に「天正六年五月、里見左馬頭義弘、上總國浦田の城にて病死せらる。發ねて遺言有りて、嫡子刑部た輔義領(實父義堯へ安房一個、並に下總領四半分を奥へられ、房州館山に在城·有るべきの旨也。次男梅王丸義弘の實子)しくは、上總國を讓られ、佐貫 サトミの城主加藤伊賀守·介補すべしとなり。担て又、下總の領知の内、半分は末の息女の化粧田と定められ、三國に散在の家人·二隊に分れて、奉公すべき由、含め置かれける。梅王丸、妹君兩人の母堂は、上總千本の城主東平安藝守の妹にて、加藤孫女政姫事も幼なければ、母堂共に龜の城へ移られける。然るに義賴·梅王丸を房州の圓明寺へ招き寄せ、押して刺髪せしめ、春齋と號し、備に二十貫の厨料を授け、母堂及び妹君をば、上總國高瀧の琵琶が首と云ふ處に、國なる居宅をしつらひ、是へ移されける。去れば、梅王丸へ附屬有りし上總國士等も、怒を啣みて、久留里、千本の兩所を根城とし、一機所々に蜂起す。然れども加藤伊賀守·變心し、春齋を遺俗せしめ、里見讚岐守義成と改號させ、所領配分一萬石とぞ聞えけり、」と。此れより里見氏衰へ、天正九年、北條との和破れ、椎津、廳南、久保田、萬喜の城を失ふ。息左馬頭義康·父に繼ぎ、程なくて義賴世を早うし、岡本の城にあ子リ。天正十六年、北條が兵、上總の國を打從へ、安房の國へ攻め入らんとす。義康·久留里の城にて防ぐ。かくて天正十八年、豐臣秀吉北條を討つ。義康城より討て出で、北條軍を破る。秀吉·義康の早く馳せ參らせざる事を怒り、上總下總の地を收公し、本領安房國を賜ふ(九萬二千石)。其の後豐臣の姓を賜ひ、四位侍從、兼安房守になされ、朝鮮の事起てのち、筑紫の陣に馳せ參る。慶長五年の秋、德川氏に隨ひて奥の會津に向ふ。關が原戰後、常陸國鹿島郡を賜ひ(三萬石)、義康三十一歲、慶長八年十月十六日に卒し、息男梅鶴丸·父に繼き、十一年十一月五日安房守忠義と名のる。其後四位の侍從になされ十九年、九月九日、舅大久保相摸守忠隣が緑座に因りて、伯耆國に流され、元和八年六月十九日死す。里見氏·房州を領せし事十代、凡そ百七十年にして亡ぶ。忠義の老正木大膳、印藤釆女等、江戶に參りて罪なき由を、さま〓〓に申披きしかど、終に叶はざりしと云ふ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[8]:5頁、49頁、97頁、98頁

本朝武家諸姓分脈系図(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[27]:5頁、7頁、8頁
  • 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[237]:11頁
  • 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[269]:5頁

華族類別譜(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)(明治16年)上巻:153頁
  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)附録 巻之2:32頁
  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)上巻皇別:150頁
  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)上巻皇別:148頁

新撰姓氏録考証(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)下(巻11-21):149頁、332頁
  • 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之13:3頁
  • 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之11-21:51頁

系図・系譜

関連論文

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