都下(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
1都下國造延喜延、神祇三臨時祭條に「凡そ座摩巫は、都下國造氏の童女七歲巳上なる者を娶りて之に充つ。若し嫁時に及べば、辨官に申して交替す」と見ゆる都下國は、允恭紀に載する前述の闘雜國とは別にて、攝津國莵餓の地ならんかと云ふ。されど果して然るや、予輩舊說あり、次に引くべし。「座摩神とは大宮の地(卽ち皇居)の神靈である。それが宮中以外、大坂の地にのみ祀られてある事は、不思議とせねばならぬ。これについて眞淵翁の祝詞考に『仁德天皇·宮造したまひて、宮中に齋きましゝ故に、其の後、大和、山城と、京を遷されても、同じくうつし齋はれて、そこを卽ち座摩といひしなるべし)』と見える。けれど、それなら、各都跡には、それ〓〓此の神を祀つた跡がある譯だが、唯ひとり大坂にのみ此の社の殘つて居るには、何か他に理由がなければならぬ筈である。而して延喜式に、「宮中座摩の神に奉仕する巫は、都下國造の童女で、七歲巳上の者を取る」とあるが、此の都下は蒐餓にて、仁德紀に見ゆる莵餓野附近、卽ち大阪座摩社附近にあつた國造であらうと、吉田東伍先生は仰つたが、此の邊に國造があつたとは思へぬ。又他に所見がなく、反證は多い。一種、大坂附近全體は昔の難波大郡、小郡の地で、朝廷直隸であつた故、その樣な國造があつたとは考へにくい。其處で私は此の都下もツゲで、大和の都介に外ならぬと思ふ。此の都介は闘雞國を置かれた地で、後には大和山邊郡に一〓名を殘すに過ぎないが、團雞國造、部郡直の名が古史に見ゆるを思へば、延喜式に至つて、都下國造とあつたとて、何等異とするに足らぬ。殊に確波高津宮、卽ち座摩社の鎭座地なる大坂の地に奠都せられた·仁德天皇の時代には、開雞橋置(國造)大山主と云ふ人が出て、氷室の氷を御所に献じた事が、仁德紀に載つて居るので、其の間に一道の脉絡がある樣に思はれる。一一、座摩神は、五柱の神であるが、其の内、生井、福井、綱長井の三神は井戶の神で、氷室と緣があるのみならず、都郡には都郡水分神社と云ふ社があつて神名式に見え、古くは國造の氏神であつたらしい。此の井戶の神、氷室を献上する事、それから水分社、此の三者は、その間に密接な關係がある樣に思はれる。以上によつて、私は次のやうに考へた。座摩神は、もと都郡の地にあつて、開雞國造が奉齋して居たが、仁德朝に氷を獻じ、天皇がお歡びになつた事から、此の神を天皇の部の地なる難波に遷し祀る事となり、鬪難國造の一族が相變らず此の社に奉仕した。その後、仁德天皇が崩御せられて、都は大和や山城に移つたが、此の離波京の地にある座摩神は、井戶の神だと云ふ處から、八神殿などと共に宮中にも祭られ、難波の地にも殘り、古い綠故より座摩巫は、難波の地に移つた、此の國造一族から出す事になつたものと思ふ」と。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
寛政重修諸家譜(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『寛政重修諸家譜』(堀田正敦編、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[11]:88頁
- 『寛政重修諸家譜』(堀田正敦編、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[60]:20頁
- 『寛政重修諸家譜』(堀田正敦編、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[89]:50頁
- 『寛政重修諸家譜』(堀田正敦編、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[127]:85頁
- 『寛政重修諸家譜』(堀田正敦編、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[291]:81頁
- 『寛政重修諸家譜』(堀田正敦編、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[295]:92頁
系図綜覧(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第一:39頁、208頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第二:27頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第1:38頁、207頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第2:25頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション):40頁、210頁、259頁
本朝武家諸姓分脈系図(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[75]:27頁