郡三澤村
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
四六九九 ハセカハ四七〇〇ハセカハ田村水帳にかゝる例見えたり。されど其の水帳は一段三百六十步の古法にて大小の步を用ひしと云ふ。これぞ、その頃糺せしものなるべし」to又新座郡菅澤村の名族に存す。又卽府内備考に「下谷上野新黑門町長谷川七郞右衞門。右七郞右衞門方·元和人參と唱へ候儀は、長谷川安〓と申す者の先祖長谷川和泉と申す者、高麗御征伐の節、武功を以つて、月池翁人參傳記、並に朝鮮人參の種を取り候儀、一人に傳へ來り候に付、本朝人参出生を安〓より御役所に書留これ無きを御訴訟申し上げ、元祿三午年七月廿日·御免許これ有り候處、同十一實年十二月十日、安〓の居宅·順燒致し、雖義の節、二代目七郞右衞門義·厚く養育致し候爲、謝禮として『人參造作製法諸事第用十に割四分の德用·相渡すべき旨、元祿十二卯年十月十五日、堀越七郞右衞門殿、長谷川安清』と認め候證文一通、並に『人参沽湯·江戶、京、大坂國々、貴殿一人に申し渡し候間、上性楔人參のため、宜數く致す』べき旨、前書同樣の月日證文一通、外に京都に於いて胸井半兵衞、同五兵衛と申すもの賣弘め、ハセカハ德用割合相下し申すべき旨、元祿十五午閏八月二日、右安〓、七郞右衞門兩人宛名の證文一通これ有り、御當地にては、七郞右衞門方一軒に限り、和人參賣場と申し相弘め候前、追々紛らしき人參製法致し候もの之れ有り、自然渡世も薄く相成"、享保の頃より相止め候趣申傳へ候。尤も證文顯三通は只今以つて持傳へ申し候.長谷川安〓居所、井に右銘式の義相知れ申さず候」と。19上野の長谷川氏相州文書、應永廿五年三月廿日のものに「上野國淨法寺内、平塚、牛田、岩井三所の事云々、長谷河山城守押妨」と。20常陸の長谷川氏大和長谷川黨の流にして、第二項の族也。新編國志に「茨城郡扁田村の長谷川氏は著姓なり。天正年中、長谷川豐前信綱、第豐後綱重等はこの村の人なり」と。又和光院過去帳に「はせ川但馬守新右衞門父」など見ゆ。21岩磐の長谷川氏田村家臣に存し、又新編會津風土記、河沼郡黒澤村條に前迹·長谷川主殿某と云ふ者住せし」と云ひ、又青津(生江)氏四家老の一に見ゆ。又安積郡福良村鬼渡神此の神職に長谷川日向あり、「もの先を造酒丞某と云ひ、ほ賣中始めておくとなり、四世にして今の日向家長に至る」と見ゆ。又會津若松に存し、又岩瀨郡の名族に見ゆ。又大沼郡小谷村舊家に長谷川羅右衞門あリ。「此の村の肝煎なり。先祖は長谷川五郞國義とて、大和國長谷に住す。後河內守と改め、莊園多く領せしが、九代の孫越中守某·牢人して會津に來りしより、此の村の長となれり」と見ゆ。22越後の長谷川氏蒲原郡行地村の舊家〓また小河氏と云ふ。新編會津風土記に「高出村舘述。相傳へて、文治年中、此の村の地頭長谷川土佐某が居宅なりと云ふ」と載せ、また同郡栃堀邑に存し、又天正の頃、長谷川近内あり、芦名氏に屬す。又「舊家長谷川源左衞門、村の肝煎なり。長谷部信連が子孫と云ひ傳ふれども、系諸を失ひ、如何なる故にて、長谷川を名乘りしか知れず」と。又「廣瀨村の肝煎長谷川甚八と云ふ者、文禄三年の水帳を藏む」と又「行地村の肝煎長谷川義右衞門·古文書數通を藏す」など新編風土記に見ゆ。又齋藤弘重配下の士に長谷川基連盛正記に秋直)あり、川中島決戰の日、謙信の命を受け、甲軍の將安間弘重と戰ふと傳へらる(野史)。又彌彦社中條の神官に此の氏見え、又幕末、蒲原郡粟生津村長谷川誠の子に鐵之進世傑(公興、號强庵)あり、動王の士也。又三條の盡家に長谷川嵐溪(茎、芳溪)あり。23山陰の長谷川氏伯耆國の名族に見え又但馬村岡の醫師に長谷川樹德あり。24山陽の長谷川氏藝藩通志に「山縣郡中厘村長谷川氏。先祖長谷川彥左衞門は吉川家士淺技固幅に仕ふ。天文年中、淺技氏·上石村に移り、彦右衞門をして其の故宅に居らしむ」&又山口毛利藩士に長谷川好道あり、明治時代、將軍として功多く、伯爵を賜ふ。その圖子豬三郞也。25紀伊の長谷川氏那賀郡國分莊の名族にあり。續風土記、國分莊四國分村舊家條に「六十人地士長谷川半左奮門。其の家傳へ云ふ、其の祖は澤越中といふ人の臣にして、長谷川助右衞門といふ。備中高松城水貴のとき戰功あり、越中、淡路を領し、助右衞門は須本浦の船奉行たり。其の後池田勝入に屬し、又中村孫平次に屬す。根來一亂に泉州岸和田にて戰功あリ。其の後又諸家に屬すといふ。三代目半右衛門といふもの浪士となり、當村に來り、元和五年地士となり、代々當村に住す。家に天正文祿の文書を蔵す」と見ゆ。26阿波の長谷川氏蜂須賀藩文武有功の士に此の氏見え、爾來同藩の重臣たり。又寬永中、稻田氏と共に淡路洲本城を築く。又當國の國學者に長谷川貞彥あり。2'讃岐の長谷川氏大畠城主也。長川條を見よ。28伊豫の長谷川氏豫章記、正平頃の人に「鹽川長谷川箱河四郞、得能人々」と。29肥前の長谷川氏古史傳に富士講の由來を說き「天文年間に肥前長崎に生れし長谷川左近竹松と云ふ人、富士修行を爲し、正保三年に百六歲にて人穴に入定す、法名角行東覺と云ふ。其の道統は日甜、甜心、月甜と相續し、元祿享保の頃、其の講社·益々盛大になり、月心、井に村上光〓と、月行、井に食行(身祿)との二派と爲る」to 30日向の長谷川氏日向記に長谷川中務承あり31豐前の長谷川氏京都郡の豪族にして永享廳仁の頃、長谷川正氏あり。32畫師長谷川家長谷川流の祖等伯は、能登國七尾の人、初め狩野家に學び、後雪舟の流を掬む雲谷派に入り、名聲を擧げ、大坂城に繪く。その子宗也、久識、養子等林(本姓小野)、門人等的(本姓小野)、族人等重、等林の養子等作等、皆名あり。その他左近(等伯の男と云ふ)、等悅(雲澤)、宗宅、宗圓、その子等雲、宗〓(字右奮門)、雲嶺(法橋)、その子雲貫(等英)、珠長等、皆雪舟派の畫伯也。又長谷川雲旦(宗秀、法橋)、その子雲堤(宗一)、その子雲塘あり。又狩野派に長谷川養辰等皆名高し。次に浮世繪にも多く、長谷川雲朝(平四郞)、長谷川新之丞、長春(雪舟末孫と云ふ)、永春(光信、梅翁軒)、信春、その子永信等殊に名あり。33雜載松平近江守用人、府中毛利藩用人.古河土屋藩用人、福島板倉藩用人、松山松平藩用人、德島松平蜂須賀藩用人、圖中川藩重臣、松平高松藩重臣に見ゆ。又堀尾山城守給帳に「千石長谷川半右衞日向記に長谷川中務 ハセカハハセカハハセクラ四七〇
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)