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遠水(木氏族)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

6佐々木氏族近江多賀氏については、以上の如く數流、或は數說あるに、猶ほ京極氏の族に多賀氏あリ。本朝通記に「文明元年、多賀豐後守高忠、兵を率ゐて、勝元を援け、既に歸國了。高忠は高極の族也。甞つて洛の所司代と爲りて、美名あり、江州多賀城に住す」と見え、又澤東諸國記に「又源高忠あり。文明二年度寅.使を遣はして來朝し、書して所司代京極多賀豐後守源高忠と稱す。其の使人言ふ、生觀(持〓)同母の兄也」と蓋し京極家より入りて多賀氏を讒ぎしものか。寛水系圖、多賀氏條には「本姓は中原なり。中世佐々木の弟豐後守高忠、多賀を領せしより稱號とす」と云ひ、寛政の多賀氏の早譜には「中原氏太宰少典勝良の末孫、多賀孫三郞秀貞より七代を高忠とせり。高忠は京極政經の代、侍所代(所司代)たリ。佐々木系圖には「家の子多賀豐後守高忠」と見ゆ。京極條を見よ。又江北記に「文明三年、多賀豐後(高忠)」「多賀兵衞四郞大成」「文明十八年八月十七日に、多賀大成·生害せんと欲するに付き云々」また「文明四年か、五年の時分に候哉、祖父秀維·新左衞門にて、多賀出雲守とくけん事也。立相國の儀成敗の處、出雲守·理不盡の沙汰、之れ有るの間、然るタカタカ臺灣 タカタカタカ臺三べからず候由を申し候と雖も、承引なく候間、あつき河内いのはなを拵え引籠候處、濟州より妙珍持玄院へ罷リ越し、口入あり。國中へ罷リ出で先々の如く申談じ成敗を加ふる者也。いのはなには秋頃より明る三月時分迄、有りし由に候。多賀こかく、次とくけむ出雲が事也。多賀豐後が聟也。其の次大成·兵衞四郞にT.月瀨に於いて生害、其の次正雲四郞右衞門事、其の次四郞右衞門にて、八月十三日內保合戰にて討死也」と見ゆ。その他上坂、下坂、京極等の條を見よ。又子孫は以下各項に在り。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

系図・系譜

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