道號(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
橘姓にして、前古市郡通法寺村の人、コミコミーコミチコミチ-コミネ二三九一 コミネコミネコミネーコミヤ二三九二大綱寂公)-參河守政常-結城參河守滿政-參河守兩親-下野守直親-參河守直常-修理大夫朝〓(永正七年二月七日自害、法名宗鎭)」と見ゆ。朝常は、正平五年九月、其の族を離れて、獨り官軍に應じ、石堂秀慶と戰ひしも、翌年又叛き、七年宇津峰城を攻めしこと、諸書に見ゆ、(白川文書、大日本史、關城釋史)。其の子孫滿政は、白河中畑文書に「下野國內上野□□跡の事、云々、判(笹川滿貞)。小條三河守殿」と。其の孫直親は室町幕府御内書案、及び本朝通鑑等に載す。其の子直常、その子則修は廣瀨氏の結城事實に、延德二年、修理大夫に補任の證あるが、此の人、永正七年二月自害と述べたり。然るに、水正七年の白河内訌は、嫡流政朝(一名義永、彈正少弼)も九月に至り害に遭ふ。是れ實に岩城の援兵小峰氏の招に固りて、入侵したるがためと聞ゆ(會津舊事雜考、白河古事考)。されは、小峰直常、小峰朝修の子弟は猶ほ在りしに似たり。又廣測氏は系圖に、政朝の子顕賴とあるを疑ひ、實は子に非ずして、小峰の子弟の奪ひて、嫡家に代りしもの歟と論ぜらる。吉田氏の再考に、永正の比、古河公方政氏、高氏の父子、及び其の養者·梶原三郞政景等よりの文書に、小峰修理大夫殿、小峰三河殿と宛てたる數通は、皆小條朝修にて、嫡家の政朝にあらず。勿論其の子の顯賴(右兵衞佐にもあらず。(古河政氏判書に「武茂庄の事、度々仰せ出され候の處、今に其の旨を存ぜず候。曲事に候、速に上意に隨ひ候樣、白川彈正少弼へ、意見加へ候者、然るべく候、謹言。小峠修理大夫殿」と)。顯賴は會津舊事雜考に合稽して、政朝の子と判知せられ、其の末路を詳にせずと雖も、蓋し小峰義綱に其の家國を奪はれしのみ。(再考するに、政朝の次に隆朝、次に義綱と歴代したる形跡、八槻大善院の文書に追蹤せらる。隆朝は、惟ふに岩城氏と親盟し、因りて彼の家の隆字を頁へる歟。此の人、即ち政朝を倒して、之に代れるならん。諸系圓、隆朝を顯賴と混同するが如し。義綱は、其の世系を詳にせず、大永申以下の文書に其の名見〓白川左兵衞佐と稱せり。其の子晴綱晴廣ともいひ、天文永祿の比の人、は、白川左京大夫と稱せり。其の子義顯は、永祿中に相續せしならんも、治家久しからず、關七郞義親(入道不說)に奪はら(地名辭書)と。小峰氏は、應永三十一年足利持氏の補任狀に「常陸國小佐都郷、佐竹尾張守跡、小峰參河守」より三河守は應永中·同郡高倉城に居ると云ふ。高倉、町田條參照又那須系圖に「播磨守責親の女子·小峯修理大夫朝修室、子なし」と。又白河文書に「御料所、陸奥國田村庄の御年貫錢。合伍十貫文、目錄在之。右小峰殿御分として請取り申候處、件の如し。十二月廿五日。重吉、在定、凡夫(連判)。小峰殿御代官」と。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)