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概要
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姓氏家系大辞典
슨 しとは見えたり。其の父の名、望任にもあらず、又其俗名の盛任なるにもあらず、又文覺坊の子ありと云ふ事も心得られず。思ふに、是れ文覺坊が一門なる遠藤が後なるを、かく誤り傳へしも知るべからず。又遠藤氏は、藤氏の由、見えたD.桓武平氏なるべき事も、亦心得られず。但し美濃國の遠藤は、平氏也と云ふ事、東が家を繼ぎしに依れる歟、其家の說を聞かざれば、如何とも分つべからず。慶隆初は左馬助と申て、盛數が跡を繼ぎ、郡上郡山田の庄を領す、初め千葉介常隆六六東東六郞大夫胤賴が男中務入道素暹武器、承久の功に依て、美濃國郡上郡山田の庄の地頭職に補せらる。常慶は中務入道十代の孫なり、慶隆其の外祖常慶が累代の所價を、讓り得しと見えたり、」と載せ、新撰美濃志赤谷山城跡條に「東下野守元胤の居城のあとなり、中略。永祿二年八月二十四日より遠藤家の持となれリ、」と。又「氣良城城は氣良庄赤谷山の地にありて、を、永祿二年遠藤六郞左衞門尉盛數、東七郞常堯の守城なりし同新兵衞尉胤緣·攻落して放火す」と。又木越城墟、水祿の頃遠藤大隅守胤俊始號新兵衛尉)の居城のあとなり。又割岩は遠藤六郞左衞門尉盛數の子但馬守慶隆、天文十九年神路村木越にて誕生」など見え、猶ほ遠藤但馬守慶隆、郡上郡神路の木越に在りしが、秀吉公の命にそむきて、天正十五年郡上の城地を沒收せられ、小原村にうつり、其あたり七千五百石を領知せしよし、濃州古蹟考に見えたリ」等、多くを載せ、其の他、遠藤修理等見ゆ。慶隆の後は其の子慶利(伊勢守) -常友(備前守)-常春(右衞門佐)-常久(岩松) -胤親(但馬守、戶田淡路守氏成二男)-胤將(備前守)-(弟)胤忠(下野守)-胤富(左近將監、實松平伊豆守信明叔父)-胤統(但馬守、實戶田釆女正氏數三男)-胤昌(式部少輔、松平攝津守義建弟)-胤城-胤祿(近江三上、一萬石)現今東氏、子醫。家紋一龜甲、十曜、月星、三龜甲。12尾張の遠藤氏中島郡に吉藤城(吉藤村)あり。遠藤三郞右衞門の居城なりしといふ。この遠藤は織田信雄の臣也。妙興寺所藏嘉吉三年癸亥十月廿六日の古證狀に、「妙興寺領阿古江野内同開發代官職事遠藤三郞家次」とあるは三郞右衞門が先祖なるべし。13遠山氏流甲斐國八代郡にあり、遠山左衞門尉盛邦後胤也と云ふ(十六項參照) 14首藤氏流幕府にあり、首藤公清孫康〓の後也と云ふ。家紋丸に花澤潟。遠藤備中守15武藏の遠藤氏風土記稿葛飾郡内國府間村山田氏條に「山田氏もと遠藤氏なり、天正二年當所に來リ農民となり、後世々名主を動む。先祖遠藤石見〓吉は醵宿幸手の舊主一色宮内大輔に仕へし由、酒井雅樂頭阿部豊後守等より主人一色右京への答書を所藏せり、」と見ゆ。16甲斐の遠藤氏巨摩郡大城村に遠藤城あり、國志に「駿州阿部郡へ出づる間道を守衞せし墟なるべし。遠藤伊勢守の城蹟也と云ふ。門野、大城と云村名も關岩遠藤11近江の違藤氏淺井家の勇士に遠藤喜右衞門あり、坂田郡天神社を氏神とす。より起ると見えたり、松平甲斐守領國の時は此路に番所を居えたりと云、」とあリ。又「遠藤左衞門尉·鐵倉に仕ふ。その子伊勢守と共に日蓮に歸依す。建治二年七月八日卒す。後裔元和の頃勘解左衞門宗重あり」など見ゆ。(十三項多照) 17越後の遠藤氏蒲原郡五箇濱の名家にして佐渡妙宣寺の阿佛坊日得の違裔也と。18常陸の遠藤氏當國に多し、筑麓雜記に岡見氏の臣遠藤某は飯田に住すと。19石川の遠藤氏磐城石川郡小倉館は小鹽江村大字小倉にあり、遠藤内藏助の館跡なりと。又細牙城は鹽田字細久保にあリ、遠藤右近大夫眞壁將監居住したるも、天正十七年十月、伊達政宗の爲に落城すと云ふ。20田村の遠藤氏岩代田村郡手代舘〓瀬村手代木)は田村氏の臣遠藤遠江守の居舘なりと。田村〓顯家中記に遠藤遠江守(手代木)なる者見ゆ、21安達の遠藤氏大内備前の家老に遠藤因幡、同將監あり、其の壽弓矢の細工を業とす、糠澤村の矢師、弓師、この後也と(積達館基考)。22信夫の遠藤氏永祿天正の頃遠藤駿河守あり、石那坂邑朝日舘に據る。伊達政宗に攻められて降り、其の臣となる郡村志、信達一統志)。23大沼の遠藤氏會津大沼郡小川窪村八轎宮は文明十九年三月、遠藤四郞左衞門次義と云ふ者の修造也と。又穗谷澤村源慶寺位牌に元和九癸亥九月堀內遠藤土佐守入道と彫付あり。此村の肝煎違藤善藏と云者の先祖なりとぞ(新霧風土記)。24耶磨の遠藤氏新編風土記上岩崎村舘迹條に「大永の頃遠藤助兵衞(大隅とも云ふ)築きしと云。舊家、遠藤莊右衞門、此村の肝煎なり。世々遠藤助兵衞が舘述に住し、其裔孫なりと云」と載せ、又宮目村遠藤屋敷條に「遠藤但馬が屋敷なり職遠藤右近安永中より當社の神職となと云」と見