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近(3)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

3國中の名越氏鎌倉末期、此の氏は當國守護たり。元弘の頃は名越遠江守時有·在國したりしが、正慶二年五月、官軍蜂起して、時有·二塚に自刄す。その後、建武中、時有の男名越太郞時兼(三楠實錄には相摸太郞時兼とあり)越中に起りしが、橘井播磨守直常·之を伐ち、南朝卽ち直常に越中國を賜うて守護とす。三州志、射水郡二塚(在二上庄二塚村領)條に「正慶二年五月、出羽越後の官軍·越中を経て、京師へ進攻せんとするを、名國遠江守時有·曁び弟修理亮有公、甥兵庫助貞持、二塚に軍して防ぐこと太平記に見ゆ」(太平記、越中守護自害條)と載せ、又放生津(放生津庄、大袋庄)條に「正慶二年、越中守護名越時有起るとき、能越烏合の兵·放生津へ引退くと、太平記にあれば、此の時既に此の地に堡障有し成るべし」と。また新川郡條に「建武二年乙亥、名越時兼·越中に起る時、野尻玄蕃九を囑み、兵士を募リ、杉本城に據りて、椎名孫八の魚津城を攻む」と載せ、又新川郡大家庄(在五个庄内大家庄村領)條に「建武二年、名越時兼·此の城に據るを、魚津城主椎名孫六·來擊せんとす。越後の官軍も之に應ずるを、時兼·却つて之を親不知に撃つて大に敗る。貞治元年、桃井直常·軍功を得て、本營に居し、夜微服して井口城へ行きしに、誤て本營失火、直常歸營すること能はず、井口城に留る。五年九月、足利義將·之を攻む、よりて直常·松倉城に保む」と云ふ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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