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車(4)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

4上野の車氏地理志料群馬郡群馬郷條に「夫木集を按ずるに、久留末の里あり。東源軍記に車忠次あり、佐竹義宣に仕へ、義烈を以つて聞ゆ車·一に群馬に作る、 クルマケルマクルマキ-クルマモsis卽ち此に出づ」to 5江戶の車氏車善七小屋は淺草画淺草溜より少し北の方、新吉原町續にあり。物茂卿が政談に「車善七と云ふ者の先祖は、上杉景勝の家來車丹波と云ふものなるが、御草履取と成りて、御當家を伺ひ奉リ、家來をば皆江戶へ連れ來り、乞食のうちへ入れをきたるが、事顯はれたるに、廣大不思議の神慮にて御免有りて、乞食の頭となりたると申し傳ふるなり」と。此の說·恐らくは傳聞の謬なるべし。車丹波は佐竹の家人にて、名ある勇將なり。江戶官論秘鑑と云ふ書に、善七が先祖丹波守父子の傳を載せたり。略ぼ茂輸が聞取に似て、實を得たるが如し。則ち左に記す。抑も慶長度子の亂に、常州の大守佐竹常陸守義宣は、心·東西に定め兼ねけるを、其の家老車野丹波守、頻リに主君義宣を進めて、關東に背かしむ。故に義宣は景勝征伐の攻口に出で合はず、神祖·馬を返して西伐し玉ふ時に、其の尻へを襲うて切て登り給へと、丹波守勘めける。濃洲の一戰、天下大きに定まりしかば、佐竹もをめ〓〓降人に出たりける。然るに神祖は、兼て丹波守が出策の趣を聞き給ひ、たとへ義宣に其の心有るとも、丹波守においては、强諫反復もなすべき身を、其の惡をむかふるの罪、尤深し、惡むべきにたへたりとて、義ににぜぜれ、忽ちに纏親のいましめを掌り、江戶に引渡されて終に重科に行はる(確罪に處せらる)。丹波守が子善七郞といふものありけるが、此の事を聞いて深く恨み奉0.父の仇なれば、何卒、神祖にうらみ參らせんと心掛けるが、いかなる便りにや、庭作男と成りて、江城の御庭へ入込みうかゞひ奉りける云々、」かくて家康を討たんとせしがならず。「手取足取して、終に善七郎をからめ取り、御前へ引擔たリ。神祖御覽有りて、御扈從衆を以つて其の名を御尋ね有るに、善七郞今はつゝむに及ばず、有の儘に言上し、武運畫きたる上は、片時も早く死を玉はるべしと申すに、神祖·其の孝義勇壯を感じ給ひ、追つて有司に命ぜられて、乞食の徒の首領となし給ふ。是よりして車善七と改めて、今に連綿たり云々。」府內備考)。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

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