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谷(8)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

8武蔵賣亀三年十二月紀に「武蔵国入間郡人矢田部黒麻呂·交母に事へて至孝、生には色養を盡し、死には哀毀を極め、寳食十六年、終始鬪さず。其の戶協を免じ、以つて孝行を旌はす」と 0 9美濃大賣二年の栗栖太里戶籍に寄人矢田部唐」など載せたり。10常陸當國に多く、河内郡(後世谷田部邑)、郡珂郡、及び久慈郡等に八部〓ありて、和名抄に見ゆ。憎ほ第四十一、四十二項參照。11上野和名抄、當國多胡郡、及び邑樂郡に八田郷を收む、此の部民の住みし地なるべし。12奧州貞觀十二年紀に「安積郡(岩代)人·矢田部今繼」あり、阿倍陸奥臣を鷄上。13若狹遠數郡に谷田部村あり。14加賀和名抄、江沼郡に八田〓を收めて、也多と註す。15能登能登郡に八田郷(也太ありて、和名抄に見ゆ。16丹波延喜式、奥謝郡に矢田部神社を載せ、又丹波にに社あり。矢田部のありしを知るべし。17播磨揖保郡に矢田部邑あり、神亀年中、武吉丸なるもの入道して、德道上人と稱すと、峰相記に見えたり。又傳說に揖保郡司矢田部乙春あり、韓矢田部の裔にて、もと神崎郡矢田部村に住し、卒矢田部久家の時、揖保郡高明山に住し、後揖保郡大領となると傳へらるゝ國府寺條に詳かなリ。又天德の頃の武士に「矢田部郡司·戰功あり」と。猶ほ第二十八、二十九、三〓十項參照。18備中和名抄、賀夜郡に八部〓を收やて、也多倍(部)と註す。19周防延喜の玖可〓戶籍に矢田部子師丸を載せ、和名抄、吉數郡に八田郷を收to猶ほ第三十三項參照。20阿波延喜の板野郡田上〓戶籍に「矢田部吉友賣」等多く見えたり。21讃岐寛弘元年の大内郡戶籍に矢田部虫女等見ゆ。第二十六項參照。22日向建久八年の圖田帳に「權掾矢田部恒」·見ゆ。23韓矢田部矢田部の一種にして、韓人を以つて組織したるもの也。第廿八、廿九、三十の各項參照。第和名抄這矢田部造物館にして、矢田部の總額的件道家也。物部多運麻運公の子大別連公、初めて此の伴道となる。大別は山無綫の第にして、山無緩は、天孫本紀に「此の連公は、輕島豐明宮(應神)御宇天皇、立てゝ皇妃と爲し、太子兎道稚郞皇子、次に矢田皇女、次に雌島皇女を誕生し給ふ。其の矢田皇女は、罐波高津宮御字(仁德)天皇、立てゝ皇后と爲し給ふ」と見ゆれど、前述の如く記紀と合はず。されど山無疑は兎道稚郎子、矢田皇女等の壬生か、或は御祖母などなるを誤りしにて、此の皇女と全く關係なきにはあらざるべく、その弟の大別運が此の部の伴造となりたるは其の緣故によると考へらる。天孫本紀に「物部大別連公。此の連公は雖波高津宮御宇(仁德)天皇の御世、詔して、侍臣と爲り、神宮を齋き奉る。輕島豐明宮御字(應神)天皇の太子、兎運稚郞子が同腹の妹矢田皇女·難波高津宮御字(仁德)天皇、立てゝ皇后と爲し給ふ。而るに皇子を生み給はざる時、侍臣大別連公に詔して、皇子代と爲し、后の御號を氏と爲し給ふ。便ち氏の造となし、改めて矢田園運公のををふふとあり。氏道とは即ち件道に外ならず。これより前、崇神紀に「矢田部道讓祖武諸隅」の見ゆるは、追記に過ぎざれど、造遠祖とあれば、此の氏のカバネは造と思はるゝに、天孫本紀が斯く「改めて矢田部連公の姓を賜ふ」と載せ、後に帝皇本紀、推古帝條に「廿二年夏六月、大仁矢田部御橋連公に姓を改めて造と命ず」と見ゆ。此等を信ずれば、初め連なりしを、後に造と改め、更に天武朝に至り、宗族は連姓に歸りし事となる也。25攝津の矢田部造姓氏錄、攝津神別に「矢田部造。同上(伊香我色離命の後也)」と載せたり。その他、第二、廿八、丗、卅二項參照。26讃岐の矢田部造元慶元年十二月紀に「讃岐國寒川郡人木工大九正六位上矢田部造利人を移して、山城國愛宕郡に貫す」と載せたり。第廿一項參照。27山城の矢田部造同上。及び第三項參照28韓矢田部造韓矢田部の伴遺家にして、毛野氏の族と稱す。姓氏錄、攝津皇別に「韓矢田部造。上毛野朝臣と同祖●入り合、三段碰到母乳「呂なるべし)別會の孫現古君、氣長足比賣·驗神功筑紫橿冰宮御字の時、澤水に物あり、視古君(一本·現古君に作るを採るべし)を差遺して見せしむ。復奏の日、韓蘇使主等を率ゐて參ゐ來。玆に因り、韓矢田部造の姓を賜ふ。日本紀に漏る」と見ゆれど、文意·明白ならず。蓋し脫文あらん。思ふに韓よりの歸化族·韓蘇使主の後、矢田部に編入せられて、韓矢田部と云ひ、此の氏·其の伴造となりしなるべLo辛矢田部造前項と同族ならん。長谷寺綠起に「播磨國揖寶郡人俗姓辛矢田部造米麻呂」あり。聖武朝の人也。今揖保郡に矢田部村存す。第十七項、及六人部參照。30辛矢田部君第二十八項韓矢田部造の族か。或は韓蘇使主の裔か。東大寺奴婢帳所載、攝津職移に「辛矢田部君法麻呂、辛矢田部君大國、辛矢田部君枳波美、辛矢田部君衣屋女、辛矢田部君姉女、法麻呂女飯刀女、右六人は同〓(島上郡野身郷戶主辛矢田部君弓張の戶口所貫」と載せ、また天平勝賣元年の大宅朝臣可是麻呂貫賤解に「攝津岡島上郡濃味里戶主ヤタへ やって、ヤタへナース、六三三辛矢田部君川内」など、此の氏人也。31矢田部連第二十四項矢田部造の連姓を賜へる者にて、天武紀十二年條に矢田部遺云々、姓を賜ひて連と曰ふ」と見ゆ。姓氏錄には左京神別に收め「矢田部連伊香我色乎命の後也」と載せたり。32攝津の矢田部連承和二年十一月祀に「攝津國人散位矢田部連聴耳、弟貞成等、興野宿禰の姓を賜ふ」to 33周防の矢田部連延喜の攻珂〓戶籍に「矢田部連法師丸、矢田部連淨虫賣」などを載せたり。第十九項參照。34韓矢田部連拾芥抄等に見ゆ。韓矢田部造の後ならん。35矢田部首物部氏の族にして、姓氏錄、河内神別に「矢田部首。同神(饒速日命)六世の孫伊香我色雄命の後也」と載せたり。36矢田部宿禰第三十一項矢田部運の宿關姓を賜へる氏にして、本朝書籍目に「矢田部宿禰、承平六年私記作者」と見増其の他、拾芥抄、姓名錄抄、除目大成抄等に此の氏人あり。37極津の矢田冨氏第二、二十五、二十A:二十九、三十、二十二ト各項參照。又神戸山本通五丁目塚本氏邸内、及び仲居氏邸内に中宮古墳·存す。此の墳の所在地は舊と中宮村とせせり。往古より一村六戶にて、一戶も增す事を得ざるなり。こは陸戶六烟を置かれし古制の遣風なるべし。墳は大なる車家形にて環涅を有し、陪家三つありしものゝ如く、仲居氏邸にあるは陪家の一なり。又小島氏邸內にも存せり。此の墳は八田郡女の陵と傳ふ。又八部郡皇川村の名族に存す。38中臣姓和田系圖に「河內守大中大夫助平-散位助久-惣大夫助任-太郞大夫-助房-中六助綱-親眞(矢田部)-女子(石川近江殿妻)」と載せ、また助久の弟「散位五郞助〓-散位八郞助時-助兼(矢田部、松田先祖)-中三助正-惣三助綱(和田住)」とあり。松田條參照。39伊賀の矢田部氏常福寺々傳に「白風四五、矢田部未麿·出家して、和州長谷寺より來りて本寺を草創す」と云ふ。40伊豆の矢田部氏村岡氏云ふ「三島神主家譜に、三島社は舊と興島に在り。慶雲元年、島中に火起り、國守榮神主矢田部宿國全藥,助を奉じて、胴を大島に運天平五年。州人安倍轉能氏三ibに航して奉幣す、風浪の爲に、困苦せしによる。時に神教を受け、朝に奏して府中に遷祀す」と三島、及び伊豆等の條に詳か也。矢田部氏は當社の東神主にして、その系圖に「國盛-盛〓-盛春-盛方-盛重-久盛-盛親-盛實-盛直-盛平-盛俊-盛倶-盛仁-盛朝-盛繁-盛和-盛世-盛秀-盛直(實は松平惣兵衞の二男也、元祿中矢田部に改む)-盛富。四神主は貞盛-盛郡-盛成-盛題-盛房-盛權-盛義-盛兼-盛經」と載せたり。駿府内外寺社記抄に「三島驛三島大明神神主矢田部長門」など見ゆるは此の氏にして、現在彦太郎君、その男·盛枝君、神職界に令名あり。又韮山の人矢田部良吉氏は、明治時代〓育界に名あり、植物學者也。41桓武平氏大掾氏族常陸國那珂郡失城郡)八部郷(谷田部邑)より起り、大掾傳記に「吉田太郞(大戶)、此の一族·矢田部、猫崎、前田」と載せ、新編同志に「矢田部、吉田次郎なり」と。面して永まの頃、矢田君大藏秀(春秋條·見え、また六地藏寺道云にin韓矢田專業門·谷田就号也、已使居谷田部主計口述、水正六年戊寅十二月十日、改太春」、また「谷田部越後守内·永蘇王戌十月晦亡」、「谷田部中務少輔、本の名谷田部、越後守と號す」、「谷田部前越後守雅胤·天正□二乙正月二日逝去」など見ゆ。又鹿島大使役世々地頭として勢力あり。記に「谷田部大藏丞」、又小生瀬實泉寺佛龍銘等に見ゆ。下りて水戶藩士矢田部〓右衛門種總の男藤八郞常德(牝)は儒学、醫學に名高く、東軽と號す。42小田氏族常陸國河内郡(筑波郡)矢田部(谷田部)邑より起る。岡見、牛久、小田等の條參照。43下總の矢田部氏小金本土寺過去帳に谷田部刑部·見ゆ。44安藝の矢田部氏賀茂郡の名族にして、藝藩通志に「矢田部藤左衞門宅址(郷士跡附)は、中畑村にあり。郷士跡は、殿原といへる所にあり、郷士の舊址といふ」とo 45雜載撰解文集に矢田部を載せ、又彫刺者に谷田部彥六通壽あり。又武蔵、甲變等にも存す。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

系図・系譜

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