西郷(9)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9能登の西郷氏四鄭新太郎等·ものに見ゆ。10三河の源姓八名郡西郷より起りし豪族なれど、第一項菊池渣四〓氏と稱す。太平記、南方蜂起事寸〓山園東下向事の條に「今度のは、畠山入道の所行也と、落書にもし、歌にも讀み、湯屋風呂の女童部までも、もてあつかひければ、畠山·面目なくや思ひけん、暫し虚病して居たりけるが、斯の如くては、天下の禍、何樣我が身獨に係りぬと思ひければ、將軍に暇をも申さで、八月四日の夜、密に京都を遂げ出で、關東を差してぞ下りける。三河國は、仁木右京大夫義長·多年管領の國也ければ、守護代西郷彈正左衞門尉、五百餘騎にて矢矧に出張りして、道を差し寒ぎける間、通るを得ず、路次に日數をぞ送りける、」と載せ、又尾張小河東池田事の條に「去る程に小河中務亟と、土岐、東池出と引合せて、仁木に同心し、尾張小河庄に城を構えて權籠りたりけるを、土岐宮内少輔三千餘騎にて押寄せ、城を七重八重に取卷きて、二十日餘リ貴けるが、俄に拵えたる城なれば、兵額忽に盡きて、小河も東池田も、共に降人に出たりけるを、土岐·日來所領を論ずる事有りし密意に依りて、小河中務をば、則ち首を刎ねて、京都へ上せ、東池田をば一旅たるに依りて、尾張の番豆崎の城へぞ送りける。吉良治部大輔も、仁木が語らひを得て、參河國の守護代四〓兵庫助と武田家の家臣に四〓因一に成りて、矢矧の東に陣を張り、海道を差塞ぎ、島山入道が下向を支へたりけるが、大島左衞門佐義高·當國の守護を給ひて、星野、行明等と引合ひ、國へ入ける。路次の軍に打負けて、四郷·伊勢へ落ち行きければ、吉良治部大輔は御方に成りて、都へぞ出たりける」と。以つて當時有力なる氏なりしを知るに足らん。仁木氏守護時代には、此の氏·專ら國政をとりし也。後世、八名郡西川城(西〓村西川)に據증0天文年中、四〓孫三郞種員あり。次いで永祿年中、同左衞門佐吉員(或は彈正と云ふ)、天正年中、同彈正忠家員(始名孫九郞)、同久太夫政員。同新太夫某等ありて、天正十八年得替。又五本松城西郷村中山)は一に中山城と云ふ、これも四郷氏の居城にして、永祿五年九月十一日、今川氏眞の將朝比奈備中守泰能·當城シ攻む。城主西郷彈正左衞門正勝昌 日安入道の孫)敗死し、嫡子孫六郞元正·月谷城にありしが、之を聞き歸りて戰死す。その弟義勝繼ぎしも、又元亀二年竹廣合戰に死す。その遺子愛子は家康の侍妾となる、これ西〓の局にして、秀忠の母也。この人ヽ一書には前述吉員の女昌子とす。又嵩山村に古城あり、二葉松に「四〓孫四郞、山奥修理進、中山是非之助、四〓家の別れ」と見ゆ。此の氏の出自に関して、寬政提出の家譜は「菊池族四〓の後にして、彈正左衞門忠昌に至り、大內杢助惟時の男·左近將監信治をもつて嗣とし源氏に改む。其の四代彈正左衛門盛正·東八名郡にうつり、其の地を四〓庄と名づく。其の七代の孫·彈正左衞門正員-同上正勝(定省)-孫太郞元正-右京進義勝-彈正左衞門家員-孫九郞忠員-弟出羽守康員-若狭正員(一萬石)-若狹守延員(一萬石)-越中守壽員(實は大村純長五男) -左衞門忠英(大田原〓勝四男)--前守員總-齋宮員相-員豐(五千石)」。支庶二、家紋丸に作壹羽、菊,桐。元正の妹は戶塚五郞大夫忠春に嫁し、後雙笠之助正尙に再嫁す。正尙死して營中に召さる。其の戶塚忠春との間の女子を愛子と云ふ。右京進義勝の室となり、家員を生む、後義勝死し、元正の第た衞門尉〓員に養はる。天正六年三月に至り、濱松にめされ、家康に仕ふ。四〓局と稱するは、此の女にして實に秀忠、忠吉の母たるなり。藩翰譜に「若狹守源正負は、參河關四郷の住人彈正左衞門尉正勝が曾孫なり。正勝·代々西郷の城に住し、永祿の頃、始めて德川殿に屬し奉る。今川上總介氏眞·安からぬ事に思ひて、同五年九月十一日.軍勢を差向け、西郷城を襲はしむ。正勝、嫡子元正父子、ちつとも騷がず、城戶押開き、切つて出で戰ふ。元正忽ち討たれて、御方既に危ふく見えし所に、二男孫九郞〓員、隣〓に在りて是を聞き鞭體を合せて助け來り、德川殿の御勞も聽せ加はりし程に、正勝いよ〓〓力を得て、諸軍を下知し、戰ひて敵の多勢を打破る。是よりして後、數度の軍功を顯はし、終に二心を存せず、〓員が男孫九郎家員、父祖に繼ぎて、是も彈正左衞門と申ける。長篠の戰に酒井左衞門尉等と駕葉の要害を攻落し、天正六年より、此のかた、譜代の御家人等と輪番して、牧野の城を守り、武田既に亡びし秋、甲斐國に向ひ玉ふ時、駿河國江尻の城に留りて、北條が勢を防ぎ、小田原の城攻められし時、先陣打つて攻め入り、今年関東忠吉の サイカウサイカウして若狭守に任ず、」と載せ、又頭註に「大相家の母上、西郷局と申すは、實は戶塚五郞大夫の娘にて、母は西擲正勝の女なリ。四〓〓員養うて己れが子となして、德川殿にまゐらす、後に寶臺院といふこれなり」と見ゆ。元祿中、罪ありて五千石を削られ、大名の列を除かる。その他、八名郡嵩山村白土明神永祿四年棟札に「西〓右衞門佐吉員。」又寶飯郡篠東城(小坂井村篠東)は西郷內藏之助俊雄、同彦三の居城也。又篠束天王長祿二年の棟札に「四郷久大夫正貞」を載せ、又額田郡平岩城(三島村明大寺)は、永享中、四〓彈正左衞門の築きし新城にして、後菅生村岡崎城を築く。第十二項參照。皆一族也。11榎武平氏畠山氏流井田系圖に「井田兵庫介信業(三州井田城)-大炊分信業-能信(西〓八郞)-信員」と見ゆ。前項と関係あるか。12松平氏流額田郡岡崎城は、第十項西〓氏の居城なりき。此の地は、もと菅生村と云ふ。岡崎領主古記に「享德元年の比、大草城主西郷彈正左衞門賴嗣入道靑海當城を築く。龍の矯たる形、尾か頭か知サイカウ二四二八に移リ玉ひし時、下總國生實の地を賜ひ(二千石)、慶長二年、彈正左衞門家員四十二歲にして卒す(關が原の戰を記せる書に、家員·德川殿の御馬の前に在りて、諸軍の下知をす。これ權の武者奉行の如しと云々。家忠日記には、慶長二年に家員卒すと載せたり。家員が子孫九郞忠員は、關が原の戰ひありし明る年に、廿歲にて卒すといふ。此の人·未だ年著し、武者奉行たらん事覺東なし、不審の事なup同六年五月廿五日、鏑子孫九郞忠員卒す、年廿歲とぞ聞えし。二男孫六郞正員、家を糧ぎて後、若狭守に任ず。去りし慶長五年、關が原の戰には、大御所に隨ひ奉り、近江國佐和山の城落ちて後、石川長門守廉通、內藤紀伊守信政と同じく、行向ひて城を請取ける(是も不審なり。此の時兄の忠員未だ世にあり。但し陣代として向ひしにや)。其の後安房國にして所領を給ふ、幾程なくて卒したり(安房國里見亡びし後なるべし。其の年大坂の兵起りぬ。此の時正員卒せしと見ゆ。安房に移りて、やがて卒せしにや、詳なる事を知らず)。其の子孫六郞延員幼なくして家を繼ぐ。万治三年十二月廿八日叙爵らぬと云ふ和訓にて岡崎と號す」と云ひ、或は「岡阜の盡頭なれば岡崎なり」とも、「古昔溝水灣入、此の地岡阜の海角なれは、岡崎と云ふ」など傳ふ。後松平氏·常城を得、舊姓西〓氏を冒す、これ松平渣四〓氏也。しかるに此の四〓氏は更に松平本家と爭ひ、當城は遂に松平氏の本城となりしものゝ如し。されど、その變遷甚だ明確を缺く。三河物語に據れば「松平秦親の時、岩津、岡崎を取り、岡崎を次男に讓る」と。この次男は信光の弟太郞左衞門尉信廣か、系圖に「岡崎城主」と見ゆ。ぞの子孫「長牌-勝茂-信吉-親長、」代々太郞左衞門尉と稱す。又信光の子紀伊守(大膳亮)光重(親忠の弟)·當城を得て岡崎家と稱す(これは岡崎城主西船彈正、岩津城主松平親忠と爭ひ、遂に親忠の弟元重を聲に取り、岡崎城を譲る。其の子親貞也と說くものあり)。その子左馬助親貞(文亀元年の大樹寺置文に一四行左島助親貞、同六郞公親」の二人見ゆ)、其の弟彈正左衞門尉信貞は、西〓氏を稱し、入道して昌安と云ふ。大永四年に松平〓廉と爭ひ、降りて、その女を清康に入れ、聟として當城を讓る。これより當城は、清康、廣忠、家康の三代、本宗松平氏の居城となる。永祿十二年に至り、家康居城を遠江に移し、當城をその子信廉に讀る。その後、天正七年八月、家康信廉を大濱に放ち、程なく自害せしむ。これより城代を置く、石川伯耆守康昌、天正七年八月より十三年十一月まで、次に本多作左衞門重次、天正十八年迄城代たり。なほ大草條參照。13藤原北家二階堂流遠江國佐野郡西郷莊より起る。一に此の地は、もと佐野郡日根郷、明應以後、四〓氏·これを領す。因りて西郷莊と號す。以貴小傳に見えたりと。此の氏、寛政呈諸に「代々佐野郡四〓の庄に居住せしより、行〓が時、西〓に改む」と云ふ。されど、寛永の家傳には「外祖父に至り、西郷が家號を用ひし也」とあり。奥山系圖に「因幡守朝利の女·四〓伊豫守正員室」to又三河物語、遠江衆に一四〓を載せ、後世井伊藩の重臣に此の氏あり。14桓武平氏磐城氏流磐城國擊前都〓城郡)西〓邑より起る。磐城氏の族にして、磐城系圖に「弊崎隆久の子久義四辯)」と載せ、又仁科岩城手圖に「岩崎三郞隆久の子久義(四〓四郞、法名素元)」と見ゆ。15岩代の四〓氏會津藩に此の氏あり。天文廿年六月廿八日、晴信花押文書に「今度下伊奈の本意につきては、相當の地、一所出し置かるべき者也。仍りて件の如し」と。もと武田家臣たりし也。又大沼郡高田村伊佐須美神社に守從靈社あり。元文元年、家老西〓源藏近方を祭リ末社とせしなり。武鑑に會津松平藩若年寄に此の氏を收む。16雜載その他、永藤六年諸役人帳に「外樣誥衆以下、西〓四郞」。下りて相摸の人に針醫西〓吾涼あり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[1]:14頁