表夜別(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
O.M.R -若都保建宇那比五百木邊運風-彦奧曾-大八橋大海姫義信用警院-八坂入彦命崇神帝(+)尾張に於ける尾張家。熱田緣起に「火明命十一代の孫尾張國造乎止奥、」また國造本紀に一尾張國造、志賀高穴穗朝、天真大火明命十世孫小止奥命を以つて、國造に定め賜ふ、」とありて、始めて尾張國造となりたるは平止奥なり。此の人天孫本紀に「火明命十一世孫とありて、尾張大印岐女子眞數刀婢と婚す」と記す。此の尾張大印岐は葛城の高尾張にあらずして、尾張國なるは、安閑紀二年の條に「尾張國間敷屯倉、」とありて間數なる地名の存するによりて知るべし。其子を建稻種と云ふ、景行帝の朝、武藤乃東征に從ひ功あり(熱田緣起)。其の妹を美夜受比賣と云ふ、武尊の妃となり給へり。古事記景行段に「倭建命云々、尾張國に到リ尾張國造の祖·美夜受比賣の家に入リ坐す。乃ち將に婚せんと思ひ、亦還上の時、將に婚せんとす。期を定めて東國に幸し、悉く荒神及び不伏の人等を言向け和平し給ふ云々。尾張國に還り來り先日期せし美寝受比賣の許に入ります云々。其の御刀の草那藝劔を以つて、美夜受比賣の許に置きて、建宇那比伊服岐の山の神を取りに幸行、」と。また景行紀四十年條に「日本武尊·更に尾張に還リ、卽ち尾張氏の女宮簀媛を娶りて、淹留月を踰ゆ。是に於いて、近江膽吹山に荒ぶる神の有るを聞き給ひ、卽ち劔を解き、宮簀媛の家に置きて徒行す云々。初め日本武尊·佩ぶる所の草薙橫刀、是れ今·尾張國年魚市郡熱田社に在る也、」とまた〓田錄起に「日本武尊發路し給ふ、云40道·尾張國愛智郡を利とす。時に稻種公啓して曰く、當郡氷上邑に桑梓の地あり、伏して請ふ、大王篤を稅して之に息し給へ。日本武尊其の懇誠に感じ、跏覇の間、側に一佳麗の娘を見る。其の姓字を問ひ、稻種公の妹、名は宮酢媛なるを知り、卽ち稻種公に命じて、佳娘を聘納し給ひ、合巹の質、寵幸固より厚し、」また「稻種公は、火明命十一代の孫、尾張國造乎止與命の子、母は尾張大印岐の女眞敷刀婢命なり、實に尾張氏の祖也、」と。また尾張國風土記に「熱田社は、昔日本武尊·東國を巡歷しで、還る時、尾張連等の遠祖宮酢媛命を要りて其の家に宿し給ふ。夜頭ににひひ身に隨へし劔を以つて桑木に掛け、之を遺して殿に入り給ふ。乃ち驚いて更に往つて之を取る、劔光ありて神の如し。之を把むを得ず。卽ち宮酢姫に謂つて曰く、此の劔神氣あり、宜しく之を齊き奉り、吾が形影と爲すべしと。因りて以て社を立て、郷によりて名と爲す也、」と。また熱田緣記に「宮辭媛に語りて曰く、我京華に歸らば、必ず汝身を迎へんと。卽ち劔を解き授けて曰く、此の劔を實持し、我が床守と爲せ、云々。日本武尊·奄忽仙化の後、宮酢媛·平日の約に違はず、獨り御床を守り、神劔を安置す。光彩日に亞ぎ、靈驗著聞ゆ。若し禱請の人あらば、則ち感應、影響に同じ。是に於いて宮酢媛新舊を會集し、相議して曰く、我が身衰耄、昏曉も期する事難し。須く未だ瞑せざるの前、社を占ひ、神劔を遷し奉るべしと。衆議之に感じ、其の社の地を定む。楓樹一株あり、自然に炎燒し、水田の中に倒れて火焰銷せず、水田尙ほ熱し、仍りて熱田社と號す、」と。また「稻種公は、云々、實に尾張氏の祖也、因りて玆に熱田明神を以つて、尾張氏の神と爲す。便ち尾張氏人を以つて、神主、親等の職に種する也、」など見え、これより此の氏·尾張國造として熱田神宮を奉齋し、勢顏る盛なり。以上によりて、乎止與以後、尾張にありたるは確實なり、今其の年代を考究するに前だち、乎止奥以後の系圖を揭ぐべし。乎止奧ざるべからず故に國造本紀に「成務帝の朝、尾張國造に任ぜらる」とあるは誤れり。既に尾張國造の祖夜美受比賣と記景行段にあるにあらずや。以上によりて尾張氏は垂仁帝前後より尾張の國に住居せるを知る。(+)乎止與と倭得玉彥。乎止與は(イ)天孫本紀に「火明命十一世孫、」(ロ)國造本紀に「火明命十世孫、」(ハ)熱田緣記に「火明命十一世孫、」(三)姓氏錄には小豐とありて「火明命十四世孫、」とありて一定せざれど、先づ十世、又は十一世孫とすべきか、されど此の世數によりて尾張氏系譜(天神本紀)を推して、乎止與を倭得玉彦の曾孫とすべきにあらず。乎止與は垂仁前後の人にして、倭得玉彥(崇神垂仁頃の人)と殆んど同時代の人なるなり。尾張氏系譜は十一世のあたりに誤脫あらんとは前にも述べし所にして、乎止與の父祖も明かにするを得ず。唯六世孫建田肯命の條に「丹波國造云々等祖」と註し、國造本紀丹波國造の條に「尾張同祖、建稻種命四世孫大倉岐命、定賜國造」と記せるより推考して、建稻種は建田肯の裔なるべく、これに由りて、其の父なる乎止與も亦建田背の後ならんと思はるゝのみ。是を系圖に作れば左の如し。(こ尾張眞敷刀婢景帝-五百木入日子命-品陀眞若王-三柱女王建稻種|志理都紀斗賣建稻種週波縣君火 百 田 女尾網根玉美〓受比賣=倭武尊仲哀帝應神帝建稍種は、(イ)熱田緣記に武尊の東征に從ひ、歸途駿河の海にて薨じたる事を明記す。(ロ)妹美夜受比賣は倭武尊の妃なり。(ハ)記應神段に「天皇品陀眞若王の女三柱女王を娶る云々。此女王等の父品陀眞若王は、五百木之入日子命が尾張運の祖建伊那陀宿福の女志理都紀斗賣を娶りて生める子也、」とありて應神帝は武尊の御孫にあたらせられ、此の建稻種四世の外孫と婚し給ふを見るなり。(系圖參照)其の孰れより見るも、建稻種は景行帝の世の人とすべし。故に其の父なる乎止與は垂仁帝前後の人とせ 神劍を奉じて尾張にあり。又稻種の子志理都紀斗賣は五百木之入日子の妃となリ、金田屋野姫は其の子品陀眞若王に嫁して、三女王を生み、三女王は後に應神帝の后妃となる。かくして此の家盛大を極め、附近並びなき豪族となりたるに反し、倭得玉彦の家は淡夜別の後又聞えずして衰微したれば、宗家は自ら建稻種の家に移りたるなるべし、尾張氏系譜の不備、蓋し此處に基因するか。(以上)。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)