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處(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

白老 となつて、此の河南の地に勸請され、而じて更に一族が其の四横山に移つて、橫山氏となつたと考へても無理とは思へなその上、此の黨の人が古くから野別當とか、野大夫とか、野先生とか、又は野三郞、野七郞など、野の字を稱して居る事などを併せ考へたならば、小野氏である事丈に正しいと見た方がよい。しかして小野神社は式內の古社であつて、殊に元慶八年七月十五日には、從五位上から正五位上に登つて居る、よつて系圖謂ふ如く、小野隆義が武蔵守となつて此の地に來り、其の子義孝が橫山に土著して小野氏が始めて此の地に蔓つたとは云へない。隆義は平安中期以上、吉人とは出來ないからである。小野神社の存する事により、又小野郷のある事によつて、小野氏の此の地に移住したのは極めて古い時代とせねばならないのであ증 0もし神道脊書引寶亀三年官符を信據すべきものとすれば、此の社は天下勝賣七歲に官社となつて居るのであるから、創立はもつと古い時代であつて、小野筆より透か以前の事とせねばならぬ。小野は都名として、又神社ととて名高いばかりでなく、御牧として國史に現はれて居る卽ち日本紀略、延喜十七年に武産小野牧駒三十匹を仁壽殿にて天覧になつて以來、天曆八年等にも見えに居る、しかるに延喜式、武藏國の御牧には其の名がなく、多摩郡に屬する御牧としては、由比と小川とがある、而して由比も小川も、紀略にない處を見れば、小野牧と云ふのは此等の内、孰れがの一つか、又は相接近せる此等二者を併せ呼んだものらしい。果して然らば、小野とは擲名としてよりは、もつと廣い地域の名稱であつたとせねばならぬ。而して小は接頭語に過ぎまいから、小野に野原を意味す」丈丈の地名らしい。しかく考ふる時は、此の小野なる地名は此の邊の廣莫たる原野を指したもので、小野と云ふ氏族が此の地に來たから發生したものとは云のである。從つて橫山黨に小野氏であつたとしても、近江の小野から起つた春日氏族の小野氏、即ち妹子や墓を出した小野氏とする事が出來ないのである。延喜式、左馬察條に據ると、牧場の官職としては、甲斐、信濃、上野等では牧監を置き、武藏のみには別當が置かれてあつた。それ故、横山黨系圖に「資高·長保六年七月二十九日、別當職に補せらる、仍つて横山野別當と號す」とある別當は、此の御牧の別當であつて、野別當とは小野牧の別當なるを意味する事がわかるのである。つまり横山氏は畠山重思の家と同樣に御牧の別當から發達したらしい。かく考へて來ると、益々橫山氏を中央で榮えた小野氏とする事が出來ないのである。然らば何氏から出たか、次に其を考へよう。小野神社は此の地小野氏の崇敬を受けだ神社に違ひないと思ふが、此の神社の祭神は考證以來、多く天押帶日子命として居る。けれど、これは古事記や、姓氏條が、都の小野氏を孝昭天皇の皇子天押帶日子命の後裔とする事から、推定したもので、何も古い傳へがあつたのでない。しかるに式社考は本社祭神を「武藏國造祖兄武日命視神」として居る。これは前者の如く、社名より妨りに當てたものと思へぬから、反つて古傳と考へられ、凡つ見武日は兄多毛比であらうが、兄多モ比として、書事紀や高橋氏文の文に罅ら兄武日いた事は反つて自然らー思はもう모습니,印西見多毛比庭園道家の祖であも此地小野氏が、此の人を祖神として祀つたとすれば、武藏國造の一族であつたからでなからう함常國々造の一族が當郡にも多く居た事は、中古常郡の大領たりし大伴直が此の一族であり、又刑部直のあるのでわか20蓋し橫山黨は當國々造の一族にて、當郡々領なる大伴直から分れた氏で、小野〓に住みて小野を稱し、小野神社を創立し、而して又小野御牧の別當として橫山の地に居を定めたものであらう』と。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

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