藤掛次
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
三三三 郞、大九郎、享祿三年十二月四日、毛利の兮、從弟彈正に迫られ、自刄)-國松(早世)、弟光吉(幼名千代松、又掘之丞。父自刄の時二歲、修驗僧に助けられて成長の後、二ツ山城主出羽氏に仕へ、大林八十石を知行す)-勝吉(幼名德太郞、二ツ山に仕へ、後安蘭に行く〕-祐光(實は弟、又三郞、豐前と稱し、二ツ山に仕へ、大林黑潮に住す。天正十七年城主·出雲に國替に付、身は大林の郷士となる)九隆(孫六郞、幼名德太郞、大林庄屋、慶長八死、高豐祐勝禪定門) -光英〇五五耶、兄の跡を嗣ぐ)-勝英(市右衞門、家榮ゆ)」と見ゆ。また久光弟に「重光、盛光(本城彈正、後高橋刑部大輔)、常光(本城越中守)、家光(高橋九郞左衞門)、昌光(高橋次郞左衞門)等見えたり(天津亘氏)。また石見志に「阿須部の藤懸城主高橋大九郞久光は、紀臣大宅大人十五世孫高橋師光(正平五年、佐波氏と戰ひ、功に依リ阿須那三千貫を受く、その子貞光-朝貞-久光にして、此の末高橋、本城二氏に分る」と。その他、本城系圖、小笠原系圖、三宅系圖等に見ゆ。又物部神社中官修理役に此の氏あり。73播磨の高橋氏備中高橋氏の族也、前條及び第七十七項參照。74美作の高橋氏三星山城士に高橋與左衞門、また高橋源八、又「苦田郡高野山西にあり。傳へ云ふ、高橋小三郞長宗なるもの、島津久豐に撃破せられて流浪し、日向國飫肥より美作に來り、其の子宗左衞門長則、山四村に歸農す」と。又勝田郡上香山の名族等に存す。75備前の高橋氏次條高橋氏の族か。また梅鉢を家紋とするあり。76備中の高橋氏第三十六項大宅姓にして、壽永二年、木曾義仲追討の時、高橋判官長綱あり。その後、元弘年中、高橋九郞左衞門宗康、同又四郞範時、同大九郞等、松山城主たり。觀應年中、高橋英光·備中國の守護となる。次の三項、及び第七十二項を見よ。77橘姓備中高橋氏は大太郞、大五郞等とて、大字を冠するを見れば、石見高橋氏が云へる如く、大宅姓と思はるゝに、後世、賀夜郡(上房郡)高粱(舊は高橋)よリ起りしにて、天慶中、橘經氏·純友を討又物部神社中官修理役に此ちて、此の地を賜ひ、その松山城に居り、此の氏を稱せしなりと云ふ備中府志に「天慶年中、海賊伊豫掾純友·謀反の時、橘經氏·軍功あり、備中河内の兩國を賜はる。經氏嫡家河内を領知し、庶流は備中を知行して、松山城を築き、假名を高橋と稱しけり。壽永二年、木曾義仲追討の爲め、侍大將五人の内、高橋判官長綱その一人たり。元弘の合戰に、鎌倉方の大將たりし高橋九郞左衞門尉、同舍第大五郞、兩六波羅の下知に隨ひ、軍功を顯はす。大松山に高橋九郞左衞門、小松山に大五郞とて、當國の守護職たり。觀應二年、高橋中務丞英光、播州杉坂合戰の先陣として、動功·太平記に載する所なり。高橋氏、やがて窪屋郡へ移り、高越後守師秀·足利家より備中守護職を賜はり松山城へ入部す云々」と。その他は前後の條、系圖は第七十二項を見よ。78徵證此の流は、平家物語に「高橋判官長網(平氏)」、源平盛衰記に高橋判官長網、東鑑卷一に高橋判官盛綱、三十六に高橋六郞兵衛尉、三十七に高橋右馬允光秦、三十八に高橋三郞、四十に高橋刑部入四.高橋十郞·等を載せ、承久記卷四ま小笠原系圖、三宅系に「たかはし九郞」あり。下りて太平記卷三に高橋又四郞、九に高橋九郎左衞門、同孫四郞、同又四郞、同彌四郞左衞門、同五郞等見ゆ、六波羅方どう、近江番場蓮華寺過去帳に「高橋參河守時英(四十一歲)·回孫四郎樂時(三十四歲)、同又四郞範時、同五郞盛時(二十一歳)、同孫四郞左衞門元時(十七歲)」と見ゆ。その後、太平記卷二十六に高橋新左衞門尉、二十八に高橋九郞左衞門、二十九に高橋中務英光、三十一に高橋大太郎、同大三郞等あり。また備中志に「四畦城は水田莊にあり、高橋氏世々の居」と。79備中膳臣流福岡黑田藩士にして、「遠祖は京都に高倍神社、岩鹿六雁命の末葉K.I姓としては膳臣と稱する由、傳水仕り候。又福岡轉移以來の祖先高橋七兵衞正次は、長門國長府出生にて、黑田光之公に召出され御料理方頭取を數ヶ年相動め、元祿十二年己卯九月八日永眠、七十四歲、華落院蓮心居士、福岡浪人町日蓮宗妙安寺に葬る」と。正德二年甚三郞直良の遺書に「一、我等父高橋七兵衞正次、長門國長府の出生なり。行年七十四歲にて元祿十二己卵九月八日卒去。一、正次殿舍兄次兵衞殿、同國同所にて、初めは毛利甲斐守殿にて知行百石を給はり、勤士之れ有リ候處に、其の後同家門細川宮內殿へ付せられ、其の養子正左衞門とて相續して、今に勤士これ有る事。一、正次殿御親父初め五右衞門、後長左衞門、備中國出生なり。其の親父同所高橋と申す所にて、數代一ヶ所の領主として一城を構へ居住の由。一、右の節秀吉公上方よリ中国御發向成さるゝの由、夫れにつき高橋自分の城カキ上の小城にて、要害もしかとこれ無き故、同國水島の城主一家たるに依り、
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)