藤堂(和源氏足利氏族)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
8紀伊の高堂氏續風土記、牟婁郡上三栖村「古城跡。村の東にあり。藤堂與右衞門、宇野若狭、青木勘兵衞の附城と云ひ傳ふ」と。また四山郷赤木村「古城跡。村の四圓山の上にあり。土人傳へて、藤堂佐渡守の居城なり」と。又紛河材、城跡は「慶長の頃、種堂大學頭居城の跡と云ひ傅ふ」と見ゆ。9〓和源氏足利氏族吉良系圖に「吉良東條經氏の子經家(號藤堂)」と見ゆ。10雜載廣橋家の雜掌に藤堂、儒者に藤堂良直(龍山)、茶人に藤堂將監、皆名高Lo又津山藩分限帳に「七石三人扶持藤堂融助」あり。又幕臣に藤堂榮次郞(千石)を載せ、家紋津分家藤堂5丹羽系藤堂氏前述宮內少輔高吉は、丹羽五郞左衞門長秀が三男、幼名は仙丸天正十年の春、太閤秀吉(羽柴筑前守)·長秀が家に酒宴せられし日、弟美濃守秀長に男子なければ、御子一人を賜ふべしとて、仙丸が四歲なるを請ひて、秀長の子とす。此の年六月、信長討れし後、柴田、羽柴、不快の事起る。長秀·柴田と親しく、領國亦境を同じくしたれば、頓がて仙丸を取りて、但馬の出石城に置く、れ長秀が柴田に組みすまじきを謀れるなリ。天正十一年秀吉·業田を討ちしは、長秀が與力せしが故なれば、悅ぶ事限りなく、仙丸も亦秀長の寵愛淺からず。仙丸十歳の時に及び、秀吉の仰として、藤堂佐渡守高虎の子になし、藤堂宮內少輔高吉とす。高吉養父高虎共に朝鮮の軍に、度々の高名を顯し、關が原の合戰の時、父と共に関東の御方して、自ら彼處に戰ふ。高虎所領の地を給ひし時、高吉又二萬石の地を分ち領す。其の後、高虎、高次を生む。實子なれば、高次·父が跡等持院トウヂヰン京都の名刹、足利尊氏の廟所なれば、所領多き內に、康正遺內裏段錢引付に「十二貫二百九十文、等持寺餌備中國日羽〓段錢。十八貫廿五文、等持寺領、越中國小布施庄段錢。五貫三百八十文、等持寺領、江州新井〓段錢。三重五百九十文、等持寺領、尾張國中庄段錢。九貫八百七十文、等持寺領、備後國信數庄段錢拾四貫文、等持寺領、賀州粟津上下保段錢。五十貫文、等持院領段錢。三貫三百九十文、等持院領段錢」を擧ぐ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)