薩摩隼人
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概要
関連文献
姓氏家系大辞典
隼人の一種にして、古くは阿多隼人と云ヘリ(アタハヤト條、及び上代に於ける社會組織の〓究、隼人の條を見よ)。卽ち書紀には阿多とし、續紀には藤摩とす。阿多と云ふも、薩摩と云ふも、其の地域は殆んど等しくありしならんも、或は、古代にては阿多が此の隼人の中心地なりしに、後、薩摩郡に、その中心·移動せしに據るか。大賓二年九月紀に「薩摩隼人を討ちし軍士に、動を授くる·各々差あリ」と云ふは、八月紀に「薩摩の多嶺、化を隔て、命に逆ふ。是に於いて兵を發して征討し、遂に戶を校して吏を置く焉」とある征討を云ふ。此の隼人の王化に服したるは、極めて古代の事にして、薩摩、卽ち阿多隼人は、大隅隼人と共に、早く京に登りて王事に服したるは、神代記紀に載せ、天武紀、持〓紀等に其の證·見ゆ。されど頑迷の徒は猶ほ少からず。景行、武尊征討の後、姓氏錄に「尤恭天皇の御世、薩摩國に遣はされ、隼人を平ぐ」と蓋し此の記事の如きは、其の一二の例に過ぎずして、反服常なかりし者と見るを隱當す。猶ほ大寶二年十月紀に「是より先、薩摩隼人を征する時、太宰所部の神九處に舊祈す。實に神感に頼り、遂に荒賊を平ぐ。爰に幣帛を奉り、以つて其の癖に饗す爲。唱更國司等(今の薩摩也)言ふ、國内要害の地に於いて、柵を建てゝ成を置き、之を守らんと。これを許す爲」とあり。次いで和銅二年十月紀に「薩摩の隼人、郡司巳下、一百八十八人·入朝す。諸國の騎兵五百人を徵し、以つて感儀に備ふる也」とoまた靈龜二年五月紀に「薩摩、大隅の二國·隼人を貫す云々」と。以下多けれど省略す。アタ、オホスミ、ハヤト、ヒ、クて、クマビトヽ"、キモツキ等の條を參照せよ。近江に此の族あり、サツマ、ハヤトの條を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)