葛西(4)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
4奧州葛四氏〓重·賴朝に仕へて功多く治承四年十一月十日、武藏國丸子庄を賜ふ。其の後、文治五年奥州征伐に從ひ、膽澤以下の地を賜ひ、勢顏る盛なり。これを奧州葛西氏とす。奥羽舊事に〓四氏は三郞〓重の裔也。〓重·下總葛西郡に居る、故に之を氏とす(伊達世臣家譜)。源右府に從ひて東征、功を以つて陸奥の膽澤、磐井、氣仙、牡鹿、江刺の數郡、並に海濱六十六島を賜ふ(陸奥郡〓、 カサイ考引く葛西記に曰ふ、〓重、初め五郡を賜ふ。曰く、上膽澤、下膽澤、西根を松浦郡と號し、西岩井、東山、流を岩井郡と號し、一迫、二迫三迫を高倉郡と號し、氣仙、本吉を竹駒郡と號し、江刺を門岡郡と號すと。後武清に至リ、又登米の袋內、佐沼等の地を略有し、寺池郡と號す、乃ち六郡たり。而して世に稱する所の葛西七郡とは、晴信所領に據りて之を言ふ、牡鹿、登米、本吉、岩井、膽澤、江刺、氣仙、蓋し是れ也)。始め下總より航海、牡鹿郡石卷に達し、酒を設けて自ら賀す。柏葉あり、風に乘じて下り、盃中に浮ぶ。〓重自ら喜び、遂に柏葉を以つて黴號と爲す。既にして城を日和山に築いて居る焉6或は曰ふ、初め桃生郡中野に達し、七王館に居り、後日和山に徒ると云ふ。〓重六世の孫武晴、對馬守と稱し、傍近を攻擊し、登米の袋內、佐沼の諸地を略有す。此の時に當り、源顯家、奧羽國司に補せられ、義を倡へ勤王す。武晴·顯家に從つて西上、足利氏と戰ふ。顯家敗死.武晴敗卒を收めて歸り、寺池、佐沼の二城を修して佐沼に居る考。武晴十一世の孫を晴信と日ふ」と載せ、これよりカサイカサイ前、餘目舊記に「葛西、本所五郡二保とは、江刺、伊澤郡、氣仙に、元良に、岩伊郡、奥田保、黃海保、是也」と見ゆ。今大槻文彥氏が增補せられし葛西条圖に據るに、奥州葛西系圖は次の如し。一代〓重、葛西三郞、右兵衛尉、壹岐守、法名定蓮。吾妻鏡、治承四年に葛四三郞〓重。建久元年十二月に右兵衞尉乎〓重。建保七年正月、鶴岡拜賀行列に壹岐守〓풍貞應三年間七月に、壹岐入道以下宿老建長二年三月、葛四壹岐入道跡と。中尊寺經藏所藏、正應元年、葛西宗〓、山野相論下知狀に云ふ、「壹岐入道定蓮以來、煩ひなきの旨、之を載す、云々」と。二代〓親(〓重の子)、葛西壹岐守、左衞門尉、伯耆守、法名〓蓮。吾妻鏡、安貞二年二月に葛四三郞左衞門尉、召し進むる處の相撲芝俣平次三郞、殊逹者なり(島津本。吉川本には廿三俣)。同十月十五日に供奉人葛四左衞門財清重(島津本は但し校訂增補吾妻鏡に引く所なり、重·恐くは親の誤)。嘉禎二年八月に、供奉人に葛四壹岐左衞門尉。仁治元年八月行列に葛四四郞左奮門尉。寛元二年八月供奉人に伯耆前司〓視、翌日流鏑十二番、伯耆前司、射、子息五郎。三代〓時(〓親の子)、葛四四郞左衞門、伯耆前司、法名行蓮。吾妻鏡、天福二年七月、供奉人に葛四左衞門尉。寛元元年十月、御共結番に萬西三郞左衞門尉。同三年八月、供奉人に伯耆前司〓時。建長二年八月、供奉人に葛四新左衞門尉〓時(島津本)。同三年八月、供奉人に葛西壹岐新左衞門〓員。同四年四月、隨兵に伯書左奮門四郞〓時。四代〓經(〓時の子)、葛西伯耆三郞左衞門尉、法名經蓮。吾妻鏡、建長四年十一月、供奉人に伯耆左衞門三郞〓經。同八年正月、出仕に伯耆左衞門三郞。同年八月、供奉人に伯耆新左衞門尉〓經。中尊寺正應元年文書に云ふ「建治三年下知狀、云々、伯耆新左衞門入道經蓮云々、」と。五代〓宗(〓經の子)、葛西伊豆守、法名明蓮。中尊寺正應元年文書に、葛西三郞左衞門尉宗〓、(文中に「宗〓煩を成すの問弘安八年、上訴を經、云々、」などあリ)。同寺藏永仁二年執達狀の宛名に、壹岐守殿。太平記元弘元年、笠置軍、東國勢上洛條に葛四三郞兵衞尉。梅松論、「延元元年正月、京都神樂岡戰死、葛西江判官三郞左衞門。」六代〓貞(〓宗の子)、葛四武藏守、法名圓蓮。白河文書、延元三年十一月、沙彌宗心狀に「葛西〓貞兄弟以下一族、隨分忠節を致すの由、申さしむる間、度々感仰せられ擧る云々。」同文書「興國元年十三月、河村六郞、並に葛西一族等大略殘る所なく味方に參ず。」また興國二年三月〓顯狀「葛西の姪遠江守、別心あるの由、風聞の間、總領·計を爲し、此の間討伐せしめ了る」と。なほ奥州葛四記に「人皇九十五代後醍醐天皇、鎌倉相摸入道平高時を亡ぼし、武家、武將、總地頭、總追捕使を、取り返し給ひ、公家一統の御代と成る。京都より、陸奥出羽國司には、北畠中納言〓家〓をを下し給ひ、御下向、伊達郡靈仙の城に居住し給ふ。葛四對馬守武治勤仕す。此の時、登米、袋中、佐詔手の裏に入る。京都御陣の御勢に加リ登リ、顯家御陣破れて、日和山城に下リ、寺池城、佐沼城を築く、常に多くは、寺池城に居件有り、」と見ゆる武治も此の〓貞の事か。奥羽舊事には武晴に作る。七代良清(〓貞の子)、葛西備前守、法名蓮阿。八代滿良(良〓の子)、葛西陸奥守、法名蓮昇。餘目記錄に吉良殿、畠山殿、とり合也、吉良殿はこま崎に控給ふ云々。葛四れんせいの十六番めの子、富澤の先祖、右馬助とて、所帶の一所も持たず、こうとうばかりして候よし云々。」伊達正統世次考に「政宗公、明德二年辛未、夏六月、鎌倉執事上杉右京大夫憲孝、管領氏滿朝臣の命を奉じ、書令を以つて曰く、陸奥國加美郡は、畠山修理大夫國詮の分郡也。而して大崎左京大夫抑留す云々。早く葛四陸奥守と相共に彼所に莅み、沙汰を國證代に付せらるべし。命に依り執達如件。伊達大膳大夫殿」と0原註に「葛西陸奥守滿良は、奧州葛西始封壹岐守〓重より七代之孫也」to九代滿〓(滿良の子)、葛西備前守、法名良蓮。「案ずるに、滿良、滿〓二代は將軍義滿の一字を受ける歟。」十代持重(滿〓の子)、葛四播磨守、法名法蓮。「將軍義持の一字を受けたる歟」。十一代信重(持重の子)、葛西孫三郞、法名會蓮。十二代滿重(信重の子)、葛四陸奥守、法名照蓮。餘目記錄に「違田はかまくら殿云々。小田保荒井七〓は文治より給ふ。主の知行大崎が下にて十二〓、大崎は知行候を、伊達成宗調法を以つて、遠田の替地と爲す。遠田十七郷、荒井七郷、當永正十一より四十三年前也。かさい淨蓮ヘ相渡也(案ずるに、淨蓮と照蓮と音通ず)。十三代宗〓(滿重の養子)、葛西武藏守、實は伊達成宗公の子、好養子となる。法名誠蓮。伊達略系に「宗〓は葛西陸奥守平滿重に、養はれて嗣と爲り、七郞と稱す。永正十七年、武藏守に任ぜられ、大永二年、從四位上に遷る(案ずるに宗〓は父成宗君の片諱を受けたる歟。餘目記錄に、書狀宛名書式を記して「葛西陸奥守殿、〓兼、」あなたよりは、「進上、中日殿、武藏守宗〓、」〓兼は、大崎の七代、斯波左衞門佐にて、其の女は伊達成宗君の室なり)。十四代晴重(宗〓の子)、葛西陸奥守、法名祝蓮。第十二項參照。十五代晴胤(晴重の養子)、葛西三郞、左京大夫、法名律運可梁。實は伊達稙宗公子、婿となり名跡。伊達略系に「晴胤は將軍足利義晴より謀字を賜ふ。小字は半法 カサイカサイ右馬亟、千葉五郞右衞門、富澤日向守、寺崎石見守、濱田彈正、橫澤出雲、築館坑前.島籠四郞兵衞、上沼備中、武鏡曲膳、金田豐前、柳津三河、今泉左門、大貫丹藏、永江筑後、都合七百餘騎也。葛西一門には葛西式部少輔、同民部、同六郞、云々」と。○鼠重(義重の弟)、葛西右衞門、葛四氏過去帳に「胤重、文祿四乙未年九月廿二日,法名起山。」○重俊(胤重の子)、葛西式部大夫、後に流齋と稱す。封內記に「相野谷邑飯野川際、今公族葛四氏の釆邑、古蟲あり、昔葛西紀伊重俊入道流齋居る所」と。○重信(重俊の子)、葛西左馬助。宇和島伊達氏に仕ふ。○俊信(重信の第)、葛西紀伊。仙臺伊達氏に仕へ、准一家に列せられ、仮野川百十三貫文を領し、寛永十二年沒す。其の玄孫に至り、安永元年斷絕。葛四氏は十七代晴信に至リて、天正十八年に滅ぶ。當時の領地は、牡鹿、本吉、登米、磐井、贈澤、江刺、氣仙等、數郡にて(株生郡の東部、栗原郡の東北部も入れり)、之を葛四七郡と稱し、俗には三カサイ十萬石など傳へたり。其の居城は、世々、牡鹿郡の石卷城なりき。後、足利氏の中世に至り、登米郡を兼並するに及びて、同郡の寺池城にも住せりと見えたり。なほ十二項を參照せよ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)