苅部(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
1武藏の苅部氏橘樹郡にあり、新編風土記に「苅部氏(保土ヶ谷町)、先祖を豐前守吉重と云ふ。當國久良岐郡の人なり。北條早雲より氏直に至るまで五代の間仕へて、關東八箇國の郡司を勤めしと云ふ。家に傳ふる·いさゝかの記錄を閱するに、天和三年三月十九日、〓三郞吉次といひし者の覺書なり。其の文によれば、豐前守吉次は武州鉢形の城番をつとめしとあリ。苅部出羽守吉重、同修理亮吉重、同〓兵衞吉重とつらねしるせり。三代同じ名を用ひしと云ふも誤あるべし。又側に右三人の名乘は小泉次太夫が授けし所なりとあり。次太夫吉次は御打入の頃より、御代官を勤めし人なれば、彌々うけがたき事なり。又彼の記錄に云ふ、右の内苅部內膳と云ふもの、神奈川領二又川にて六箇所の領地を、北條氏康より賜はれリと。かの内膳と云ふは出羽守か、又修理亮などが初の名なるにや。又云ふ苅部豐前守、當所上中下ともに氏綱より賜りて領せり。御當代に至りて、〓兵衛吉重うつたへて上中下ともに石高を分ちて農民に配分し、其の内保土ヶ谷町をば自ら所持せりと云ふ。又別に記せしものあり。其の文には『永祿十二年九月、甲州勢小田原へ人數を出せし時、吉良左兵衞督義門居館を、この近郷蒔田に定む。其の頃幕下に屬せしは、大橋山城守康思、北見關加賀守滿賴、苅部豐前守参則、多目周防守長宗』とあり。之によれば、豐前守が名乘の吉重としるせしは、彌々誤なる事しらる。今の清兵衞が父〓兵衞の時、年頃宿役の事に心をもちひ、傳馬宿次の指揮もおこたらざりしかば、天明八年八月廿九日、伊奈攝津守より、きこえ上て白銀こそばくを賜ひ、其の身一代は帶刀すべく、又今より以後子孫永く苗字を名乘べきよし免されて、憂賞ありしといへり、」と載せ、又久良岐郡條に「苅部氏(蒔田村)、祖先を苅部長門守と稱す、是も吉良氏の家臣たり。卒年詳ならず。法名榮久宗〓居士と云ふ。小田原記に載る輕部豐前守は、この人の一族などなるべし、」と。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)