臣(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2肥前の伊佐氏伊佐氏の事は、歷代鎭西要略二に「永長二年丁丑(改水德)異賊船百餘艘、松浦澳及筑前海上に來り、充滿、枝船を下し、軍器を調へ、將に九國の土に攻上らんとす。太宰府官兵、九州の軍士、大いに防ぎて賊を擊つ。賊船賊徒數萬薄水に沒謂す。肥前國藤津郡の郡吏伊佐平次兼元、殊に戰功を播し、錢封大庄四ヶ所を賜ふ。且つ兼元をして官に列せしむ矣。眞言沙門覺錢は兼元の子也。其先桓武天皇の奇平親王將門の孫也、」と見え、また密嚴上人行狀記に「大傳法院本願上人の世系を考ふるに、父は肥前國府知津の莊の抱追捕使伊佐の平次兼元、母は橋氏、同じき國の豪家有德の娘なり。然るに兼元は累代武略の勇士にして其名選週に隱なく、〓梓の長幼常に畏敬をなLo路頭にては腰を折、面前にては膝を屈す。同腹に四たりの男子を誕生せり、中にも三男彌千代(密嚴)丸は堀河院の御宇嘉保二年乙亥に誕生し給へり(中略)。其の比、異賊本朝を農はんとして兵船數十餘艘に取乗、肥前の國松浦の澳に懸りて枝船を下し、人馬共に乘込、渚に下リて中國に攻入んとす。鎭西の武士此由を聞て、各自に蠟集す。中にも、菊池、大伴、宍戶、松浦黨、命を賤して懸合けるイサイサイサ(10° イサイサイサ言に、異賊爾强にしてひるむ色なし。宍戶の一黨慮を盡し、力を究めて禦戰へり。朱旗天に飄ては秋林に紅葉を瀑かと怪しみ、白双地に関ては冬郊に霜雪を凝かと訝かる。飛箭空に亂れて兩脚よりも夥くして、烽火野に逼ふして星榮よりも爛なDo平次兼元は元來精兵の强弓、矢次早くして、手垂なれば陣面にかけ出で、術を盡して射ける程に、凶贓等射產られ、此勢に辟易して軍破れ備亂れて敗北す。或は船を乘傾けて覆し、或は浪に卷れて倒死す。手負をも助けず、討るゝをも圍ず、殘少に成て本國に遭還す。失戶の一黨討死、ところの首級を注進して、太宰府に遺す。卽ち帝都に送り上せ、軍の樣を奏達す。主上叡感淺からず、失戶の一黨策動に應じて恩賞あり。中にも伊佐の平次は拔群の働なれば、各別に憂賞有べしとて、太宰の小貳に補せられ莊田四箇所を賜てけり」と載せたり。また大傳法院本願聖人御傳には「本願聖人諱は覺饅、正覺房と稱す。柏原天皇の苗裔、太宰少貳純朝の末葉、肥前園府知津の莊惣追補使伊佐平次兼元子息也。伊佐氏是れ杵木黨也。母は同國の豪族橘氏の女也。異國の凶黨、吾國を討領せむ爲、競ひて當國の津に來着す。鎭西の武士戰陣に馳向ひ、力を勵し、彼等の凶惡を繋ぐ。抑も伊佐平次は、元よリ當國の住人なり。萬餘の將卒に擢んじて、先陣に騙け出で自ら鎬箭を取リ、射立つるの處凶徒長を懷きて、將に引退かんとす。兼元倍々勇を奮ひ、殘り少なに射取られ畢んぬ。然る後取る所の首級を持ち、石戶黨相共に太宰府に參る。太貳卽ち彼の首級を京師に達せしむるの處、石戶黨に於いては、七代の問、設ひ其の過條ありと雖、罪科に處すべからざるの由、廳宣を下さる。伊佐平次に於いては、苦戰の功に依り、太宰少貳に補せられ、四ヶ國を領知せしむるの由、殊命を掌むる所なり。上人父親の武威此の如し。斯の兼元に四人の子息あり。所謂嫡男童名千歳、法名村答房、二男童名二千歲、出家の後上浄、成佛房是也、三男童名彌千歳、法名覺錢、正覺房上人、四男童名鬼四郞、法名耀覺房是也。中三男彌千歳は、堀川院嘉保二年乙亥誕生、幼より穎敏、松樹凌雲の性あり、父母甚だ之を鍾愛す。康和四年(壬午同御字)鯛千歳年甫めて九歲、會兄上人材答房に尋ね問ふ。此莊本家仁和寺成就院大僧正御領也、云々」とあり。此の承德年度外寇の事は螢蠅抄が「古書載せざる所也、疑ふべし」と云へる如く信じ難く、且つ鎭西要略の此の記事も最後に覺鑁の事を擧ぐるを見れば、密嚴上人傳より得たるものなるや想像するに雖からず。しかしながら密嚴上人覺鑁が當國藤津郡の人にして、伊佐氏なりし事は諸書に見えて疑ふべきにあらざる也。卽ち紀州根來寺血脈に「將門季軍六葉の氏族、肥前國府智津庄(或書藤津)惣追捕使伊佐平次兼元(或云兼平)木木黨也」と。又根嶺拾遺記に「尊者俗姓平氏、相馬將門の族胤、父は伊佐平次兼元、母橋氏、嘉保二年、肥の前州藤津に誕る也」と0又本朝通紀に「康治二年十二月、根來寺開山覺錢寂、姓は平氏、肥の前州人將門の屬胤也」と。又本朝高僧傳に「釋覺護、正覺と號す。肥前州の人、平將門の違奇、父兼元累世武あり」と0また元享釋書に「釋覺鑁、姓平氏、肥の前州の人、將門の屬胤也、累代武略、其父武名を負ふ〓黨〓長、钁兒稚以爲らく我父天下の豪貴也と。一日官吏租を促して家に到リ、喧呼放戾、父屏處に居りて出でず」と見えたり。この伊佐氏を前述刀伊賊入寇の際偉功を樹てたる平爲賢の後裔伊佐氏とする事は土地甚だしく懸絕するが故に、一見不穩當なるが如きも、次の如き一致を見るが故に、然りと云ふを適當なりと信ず。(1)氏名の一致、(2)共に平姓也、(3)爲賢は常陸の人なれど刀伊入寇の際、太宰府にありて偉功を立てたれば、九州に所領を得たりと想像する事を得、(4)當國伊佐氏を將門季軍六葉の氏族、或は相馬將門の屬嵐と云ふは、爲賢が將門の伯父國香の後裔なるに據ると解釋するを得。(5)なほ伊佐兼元が外寇を退けたりと云ふ傳說は、其の實·刀伊賊を指すものにして、伊佐氏の祖平爲賢の事蹟に係くべきものと解釋するを得べし。何等跡方もなき傳說を覺鏝の家に附會せりとは解し難ければ也。(6)又密嚴行狀記に伊佐氏を宍戶の一黨と云ふは常陸の宍戶黨を指すに似たり。殊に(7)今昔物語に量後の講師が伊佐の平新發意の名を借りて、爲つて海賊の難をまぬがれし條に「筑師の人の聞て云はむ樣は、伊佐の入道は其々にて海賊に値て父屏處に居りて出でず」縛られて、船の物皆取られにけりとこそは云はむずらめと。然れば心とは否進まざるまじき也。能觀既に年八十に成なむちよ。此まで生たる事思ひ懸ぬ事也、東の度々の戰に生還て、八十に及ぶ其達に毀さるべき報こそは有らめ、云々。海賊此れを聞て、伊佐の平新發意の座するにこと有れ、疾く迯げよ己等と云て、船を漕次で迯にけり」とあれば、九州の伊佐氏も東國の人にして平姓なりしや顯然たり。思ふに刀伊賊擊退に功ありたる藤原隆家、大藏種村、藤原助高等の裔が、後世鎭西に威を奮ひしと同じく、平爲賢の裔なる伊佐氏も父祖の餘感により當地方の名族として相當榮えしものなるべし。而して此の伊佐氏を良望の裔とせずして將門の屬胤とするは、將門の名が人口に噌炙するに因る事勿論なれど、これより推測して更に純友の裔と誤解するに至れリ。卽ち密嚴上人行狀記に「柏原天皇の苗裔、平氏相馬將門の屬胤、太宰少貳純朝が末葉、肥前國府知津の庄の惣追捕使伊佐の平次兼元」とあり、純朝は純友を指すなるべし。將門と純友とは殆んど同時に兵を擧げたれど、相互に聯絡ありしにあらず、其の間に關係のなかりし事は史家の定論なり。されど同時に東西反旗を擧げたれば、早くより兩者は相提携して兵を擧げたる也との風說起リ、將門と云へば、純友を聯想するに至りしものゝ如し。此の伊佐氏を將門屬胤純友奇とするも恐らく此の聯想に固る事にて、鎭西の氏にして將門の屬胤なれば、將門と同時に西海にて兵を擧げ、且つ太宰府に據りし純友の裔なりと卽斷して此の記事あるに至りしものと考へらる。以上によりて平爲賢の裔なる伊佐氏は、刀伊賊擊退の大功により藤津莊の追捕使となり、その裔より覺鏝を出せしや明白なるが、大傳法院本願上人御傳は伊佐氏を「是杵木黨なり」と云ひ、又根來寺血脈に「伊佐平次兼元(兼平)は杵木黨なり」等とあるを見れば、藤津の隣郡彼杵郡とも関係あるや明白なりとす、同郡に伊佐ノ浦あり、此の氏のありし地か。此の肥前伊佐氏の後裔は、絕えて諸書に見えざれば、如何になりしや詳かならざるも、元永二年反亂を起して、平正盛に討れたる平直澄は、此の伊佐平氏の後裔と考へられ、その直澄の後裔たる