能代
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
羽後に能代港あヌシロ條參照。又越後國蒲原郡の能生代城(能生代村)は能代氏の居城也。傳へ云ふ、「鎌倉の家人に能代左衛門尉なるものあり、順德天皇の皇子顯成王·當郡小口村問入道閉齋方に忍び給信と戰ひ、敗死。其の子河合十兵衛出家三州志に「野尻城は野尻〓野尻村領にあ70盛衰記、養和元年に、國中には野尻、河上、石黒の一黨とあり。太平記理盡抄、建武二年に、越中に野尻玄蕃尤高知ありて、之に據ると云ふ」と。椎名、名越、普門等の條參照。其の城址と傳ふるは、野尻村德仁寺の境地·是れ也とぞ。11秀〓流藤原姓波多野氏族松田系圖に「波多野義通-右馬九義評-中務丞忠經-出羽守義重-左衞門尉時光(號野尻、四井二郞)-二郞長義、第四郞左衞門尉重通(出雲守)-朝通(左衞門尉、四郞、母義泰女)」と載せ、又重通の第に五郞景秀、孫五郎時綱等あり。12常陸の野尻氏新編國志に「野尻氏は、新治郡野尻村より出づ。今茨城郡笠間邊なり村今亡す。野尻主馬は笠間長門守の臣なり、後佐竹義重に仕へて、秋田に赴く」と見ゆ。13離載日向に野尻地頭敷根賴豐あり、シキネ條參照。又出雲尼子家臣に野尻下ノシリノシリ-ノシロメシロ-ノシロコ四六〇三 ノシロコノスエ-見るに誠にめさましき事なり。此の村の人、半ば陶師なり。朝鮮より傳へ來れる法にて、やく故に自燒などは、まことに高麗渡りと云ふ物の如くにて、こゝの物とは見えず。大阪邊までも販ぐを薩摩燒と稱してめづるなり。薩摩にては、是をノシロコヤキノチヨめといふなり。さて此の野代子の風俗と云ふは、皆惣擧にて、額の上に集めで結びたり。京がたの女の櫛まげなど云ふ物の如し」と、また百圓考に「朝鮮人二十二姓、男女數十人を尊ね來れり。今時、數百戶に及び、素より國語に習ふといへども、猶ほ韓音を傳へ、容姿服割のごときも、亦舊を存し、賣審を第とし、生活をなす。又神舞及び鶴亀舞あり」と、また三國名勝圓給には「豐太閣征韓の役、慶長三年十月朝日、松齢公、悲眼公、洲川新塞にして大に戰ひ、敵軍を擊殺し、首を得る事三萬八千七百十十七、其の耳を切て本朝に送り給へり。既にして鼠旋の日、歸降の朝鮮人二十二姓(單姓にして、今十有七性の者遣れり。伸、李、朴、十、姜、郡、陳.車、林、白,朱、崔、沈、盛、舍、河T、是なり)、男女四十四人を、率ひ來り、本府と串木野邑等に置く、卽ち着船の所なり。慶長八年のを、其の事木野に居る者をして當地に移らしめ、又寛文九年、本府に居る者をして當地に住さしuo此の徒·生々して今時數百戶に及び、素より國語に習ふといへども、猶ほ韓音を傳へ、容姿服制のごときも、亦舊俗を存す。此所地高くして水なし。井を掘る事凡そ廿八一、皆範體を施して是を汲む。寶永九年、男女百六十餘を分ちて、隔州鹿屋綿笠野原に移し、今當所に居るもの男女一千二百廿餘人、古へより朝鮮資器の製法を傳へ、是を業として生活をなす」などゝ載つて居る』능維新以來は多く氏名を變へ、名聲を馳する人、高官にある人も尠からず。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[2]:20頁
新撰姓氏録考証(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之1-10:313頁