美侶(7)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
7奴可の宮氏前項氏の族人にして、獲通志、奴可郡條に「比田山は久代村にあり。塵永中、彈正左衛門利吉より、七世こゝに居守し、後大富山に移りしと云ふる一說には、出雲比田より、此の山に移る。故に比田山と稱すといへり」と。又東條川東の千手寺は、貞治中、宮下野滿重の再建と云ひ、又水享十三年三月の宮下野守盛重一宮城主)の寄送狀に1條云々」Sallowells又「大富山は栗入江三村の界にあり。宮上總高盛·久代村、比田山の城より、此に移り、五世居守す」と。久代記に「宮彈正左衞門利吉(久代殿) -左兵衞景英-監物利成-小藤太最成( -宮內介最行-上總前司景友-上總介高盛(天文中、西城に移る)」と見ゆ。此の高盛は、天文中毛利氏に屬し、當郡、及び備中、伯耆の地をも略取せしが、左衞門尉高尙に至り、雲州鹽谷に移り、四條城廢す。又天文中、上總景盛·當郡に威を振ひ、その後、宮知盛の事多く見え、又通志に「有田陣丸。上は中野村、下は八島村にあり。大富山、宮氏の勢は有田に陣し、蟻腰山、東氏の勢は陣丸に出張、戰ひしと云ふ」と載せ、又「團司川、栗村、三上郡高村界にあり。永祿二年六月十八日、山内家士田中河内·來りて、宮氏と此の地に合戰す。毛利家より、和睦をいれしといふ」などあり。その後裔は通志に「奴可郡栗田村宮氏。先祖大館多門氏常、天文年間の人なり。氏常に子なく、宮上溫景盛の第三子盛義を義すとす。因つて宮氏と稱す健庶民に降り、今の周右衞門まで九世」と。又「久代村後藤氏。世々同官たり。先祖詳ならず。宮氏·當村に居城の時、治部といふものあり。これより今の上總まで、十一世なり。家に古器數品を藏す。皆宮氏より受くる所といへり」Sa又「奧宮豐後忠盛宅址は中野村道垣内にあり。忠盛は、宮最盛が臣なり」と。その他、東.久代、覗.林條五十一項、渡部(老臣)、江田、3/4.三善等の條を見よ。又熊谷系圖に「兵庫頭信直の母は備後國宮氏の息女」と0 8安藝の宮氏通志、賀茂郡故家に「阿賀村宮氏。此の村の里正は、昔より此の家·世々にすると。慶長以前の事詳ならず」름9備中の宮氏有木氏藏宮氏の書に親知(宮内龜知山城主)」、また明應永正に「政盛(同城主宮下野守)」、その他、盛Ⅲ、兼信等あり。10藤原性阿波の名族にして、故城記那東郡分に「宮殿、近藤、藤原氏、藤の丸に吉文字」と見ゆ。11菊池氏族肥後の豪族にして、菊池系に「尼俊守兼朝-思朝「宮を解す」」と妻郡に宮井邑ろり、關係あるか。又土記、日高郡廣荘加坊村書家條に一地士宮井萬平」を載せ、「宮井氏姓は藤原、宇都宮豐網·伊豫國大洲の城主にして足利家に仕ふ。永祿中、大洲城沒落の時、其の子豐重·始めて宮井の氏を稱し、キ佐國に蟄居す。其の子幸綱·天文の頃、畠山尙順に仕へ、後大和大納言秀長に仕上。其子宗重·淺野侯に仕へ、廣島に移リ、第重家·大坂に籠城、元和元年戰死す。其の子萬吉郎重定·切目莊島田村に住し、切目八幡宮の座主となる。後當村に住して、代々地主に命ぜらる」と。又「舊家宮井萬吉·園莊御坊村宮井萬平の分家なり。萬平の祖萬吉郞重定の弟重政·宮井太次兵衞といひ、當村に移る。傾主より代々地士大莊屋とす」と。又島田村舊家宮井氏も「藤原姓、宇都宮和泉守秦景の後なり。字都宮太郞左衞門尉道綱·阿州宮井村に引籠り、宮井と改む。其の子太郞左衞門尉道貞·畠山氏に屬し、政國に隨從して紀州に來り宮原に作手。道員·江州淺井氏の子を養子とし、道站といふ。其の子善助祐綱·大坂落城心臓、浪人となり、南龍公の時、六十人士に合せらるの之秀有個·當村宮井氏の祖にて、此の地に新田を開き住す、代々地士なり」と又名草郡五箇庄地士十一家の一に宮井紋右衞門あり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)