罪守
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
主なりしが、赤松氏の爲め城を退去し、姫路の近所御着と云所に居住して、浪人となれり、父を井口奥二右衞門と云、出羽は幼名奥一之助、後に兵助と改め、尋で出羽と號す。奥二右衞門猪之助(孝高に仕ふ、長の坪に於て六太夫(手高に仕ふ、北ののに於て討死)甚十郞(事により科人又人の皆の置さる)與一之助(即出刺なり)與一之助、十三歲にて長政に陪仕しけり。十六歲高倉陣初陣也、本姓井口を村田に改めたる事は、慶長五年如水鍋島加州樣々もてなし給ひ、其家臣武功の者共如水へ見參させ給ひたる內に、村田何某度々武功多しと雖も終に手をだに負ひ不申とて加州語り給へば、如水我家臣井口と申者は、早兄三人我等が爲めに所々にて討死仕候、其弟兵助と申者一人ながら今度召連參りたり、此兵助村田が幸にあやかるやうに、名字をもらひ遣し度由仰せられければ、鍋島も御尤の俵と宣ひ、夫よりこそ井口を改め、村田兵助とは呼れけれ、筑前入國の後二千石を賜はリ、足輕大頭を勤む、元和の末には大阪普請奉行たり、元和七年十月廿九日歿す、五十七歲。15赤松氏流美作國吉野郡赤田村井口上の山塀高城(大野城)中興城主を井口長兵衞貞詮と云ふ。新免家記に據れば、長兵衞は新免伊賀守宗貫の一族にして、赤松左馬助賴則の二男なり。兄を新免宗兵衞家貞と云ふ、弟井口長兵衞貞顯、後祐西入道と改む、慶長元年九月十六日死す。大野郡大野村塀高城に居る(新免條を見よ)。されど勝北部餘野村に井口大隅之行、井口亦四郞信行の屋數跡あり、又久米郡倭文中村井口氏の祖先は井口源太信久の後にして、岩屋城に在リ、後西條郡眞壁村に落つなど云へば、此の長兵衞以前に井口氏ありしや明白なりとす。當國他にも井口氏あり、又津山藩分限帳に五十石井口十萬治見ゆ。16藤原姓寬政系譜に見ゆ、家紋上リ藤、丸に梵。17其の他大館日記に井口清右衞門、石田三成の家臣に井口〓左衞門、越後魚沼郡鹽澤村に井口氏、佐州役人帳井口氏を〓和源氏に收め、德川時代龍野脇坂藩の重臣、大洲加藤藩側用人、秋田佐竹藩用人に此の氏あり、又信濃にも存す。