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總領(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

相摸、肥前等に此の地名あり。總領分の所領たりしより起る。。總領的伴造品部全體の管理者を云ふ。「日本上代に於ける社會組織の〓究」を見よ。ソウタニ-ソオンオ- より、此の氏は葛城氏より分れたるを知るべし。葛城條を見よ。石河宿禰の子を滿智宿禰と云ふ。履仲紀二年條に見えて「執國事」とあり。三藏(齋藏、內藏、大藏)を檢校し、吋政權を握る。其の子韓子宿禰、雄略朝に新羅征討の將軍たり。其の子高麗、其の子稻目なり。和目、宣化朝元年より欽明朝卅一年まで、大臣として、大連の大伴、物部二氏と共に朝政を與る。その後、大伴金村退きて、の子馬子、父に次いで大臣となり。大連の物部氏と權を爭ふ。敏達、其用明、崇峻、推古謂朝に歷仕す。其の間に物部守屋を亡ぼし、朝政を檀にし、遂に大逆を行ふに至る。其の子蝦夷、孫の入鹿、舒明、皇極の兩朝に仕へしが、惡逆·馬子に越えたり。遂に皇極天皇の四年六月、かくて、馬子ハ孫倉山田石川麻呂·宗家父子共に誅に服す。を襲ぎ、孝德朝、右大臣となり、弟の連子、赤兄、また相次いで左大臣たりしも、赤兄は壬申の時、近江朝にありしを以つて、天武朝の元年八日配されて、此の氏·大いに衰ふ。かくて武内宿禰以來の大臣家も勞威·地に墜ちぬ。されど其の後連子の商.石川氏を稱し、奈良朝を通じて、猶ほ未だ二流を下らず、その官·中納言に至れり。次に其系圖を示せば蘇賀石川宿禰(蘇我氏族祖)-蘇我滿智宿關(履仲朝執政)-韓子宿禰(征新羅將軍) -高麗-稻目(宣化、欽明兩朝大臣)馬子蝦夷-入鹿興志敏、舒号、ま林原、酸作明:の兩朝大法師障古の固物部大臣大大明大臣善德き城大臣赤狛歌徳太子妃負古郞女- :大兄王山代天若きだ身房医室遠智媛長女持續自分古人大舒明当た法提郞媛兄皇子妊媛天然参加、元明皇帝倉麿倉山田乳媛離子石川麻呂本日まに総合)右大臣日向学身則吉田連子--子子地(大大)左大臣:安丸-石川宮麿赤兄常陸媛衣人員天然表記大義媛手武惠配境部摩利勢-毛津阿椰-小祚臣-耳高石石名用明点起なり。連は、天智紀三年條に「蘇我連大臣·薨ず」と見え、赤兄は、天武前紀元年八月條に「左大臣蘇我臣赤兄」と見ゆるにより、當時猶ほ蘇我氏稱せしなり。然るに連の子宮麻呂は、和銅六年紀に「石川朝臣宮麻呂薨ず。五男也」とあるにより、近江朝大臣連子の第此の人より石川氏となれるが如し。以下はイシカハ條に詳かなり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

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