緋染(3)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3氏人前項の氏人は、東鑑卷四十に日田四郞、圓田帳に「日田郡五百六十町、日田莊四百五十町、二條輔入道殿、地頭職日田彌三郞永基、法名法基」と。又「國東郡安岐〓二百町、餘名三十六町·地頭御家人日田彌三郞永基法名法基」と載せ、H又一歸府十町·地頭日田雪三郎永基一など見ゆ。永基は「文水十一年、蒙古關來の時、カ戰して功あり、因りて國東阿岐綿を賜ふ。その子永責·弘安四年功あり、筑前國三奈木莊を賜ふ」(國志)。前項系圖を參照せよ。又その祖鬼太夫は相撲大全に「日田太夫大藏永季は替力網倫、鬼太夫と稱す云々。延久三年、年十六、相撲の節會に黴に應じて上洛す。この時、出雲に亦奇代の力童あり。云々。途次·筑前太宰府に至り、天滿宮に祈りて曰く、今囘の相撲に勝利を得せしめば、日田郡の大肥莊を寄進し、其の地に老松明神を祭らんと。遂に去りて京師に至り、勝を得、日本第一等力者の勅免ありて、日田郡全土を賜はる。國に歸るに及び、大肥莊を寄進し、老松明神を祭る」と0又豐後遺事に「大藏永季は身丈七尺、膂力絕倫なり。延久三年、始めて相撲の節會に召されて、出雲國の猛士小冠者と云ふ者に勝てり。水季の曾孫永秀、源氏に黨し、建久五年、源右府·書を與へて之を賞し、日田の郡司は故の如く、兼ねて筑後の生葉郡地頭とす」と。在田〓永興寺は。延久三年に大福永幸建立の大悲關なりとぞ。下つて豐四記に「應安五年、今川貞世·菊池武政と筑後山崎に戰ふ。日田上野介詮永、貞世に從つて戰死す」と云ひ、又鹽永四年の役、「千葉、大村、星野、赤星、日田、陸奥守以下の官軍悉く響廳して、九國大いに清亂す。玆に因りて大内左京權大夫義弘に太宰の官を賜はりて、鎭四征伐の斧鎭を下されければ、義弘·時を延さず、七千餘騎を引卒し、同五月十五日、京都を立つて豐前國へ發向す云々」と又海東諸國記に「親常·大友殿の異母弟、辛卯年使を遣はして來朝し、書して日田郡守護修理大夫大藏親常と稱す」と載せ、又「國光·庚辰年、使を遣はし來りて我が漂流人を報ず。丁亥年、又使を遺はし來りて觀音現像を買し、書して豐後州日田郡大守源朝臣國光と稱す」と見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)