立羽(9)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9橘奈良麻呂諸兄公の別業のありし井手の里は、山城國綴喜耶井出村にて、公その建立のが山吹を植えて愛でし玉水、井手寺(光明寺)等あり。古今集に「山吹はあやなくさきそ、花見むと、植けむ君が今宵來なくに」とある歌は公の作と傳へらる。天平十二年五月紀に「天皇【聖武)·右大臣(諸兄)の相樂別業に幸す」とあるは、此の井手別業に行幸せられしにて、その日、公の男奈良麻呂に從五位下を授けらる。其の後、奈良麻呂は官位累光明皇后軽犬養東人-三千代諸兄敏雜栗波-展-美努王佐爲帝達I皇子王-半湯女王永手孝謙帝藤原房前-眞橋古郡可智(廣岡朝臣)綿裳(三笠朝臣)諸兄公此の氏の大祖諸兄は初名葛城8 進して、天平勝實年間には參議を拜す。當時不比等の孫·既に長じて、その勢また盛んなり。武智麻呂の子豐成が、天平感實元年、右大臣に登りたるを初めとして、一族多く顯職に列し、殊に豐成の第仲麿は、孝謙帝の竈を得、中奮大將、紫微合、天平寶字元年には紫微内相となり、その云ふ所聞かれざるはなし。此處に於もう.奈良麻呂は、その專橫を惡み、れを除かんと謀る。廢太子道祖王、及び鹽燒王、安宿王、黃文王、小野東人、佐伯大成、大伴古麻呂、池主、兄人、多治比犢養、禮慶、鷹養など、直接關係せし人、多かりしが、先きに諸兄公も陰かに同樣の企をなせしと傳づ猶ほ仲麿の兄豐成も陰かに謀を通ぜし也。天平寶字九年七月、謀漏れ、その陰謀は水泡に歸し、黃文王、道祖王、犢養、東人等は拷問の杖下に死し、安宿王、佐伯大成、大伴古恐斐、多治比國人等は皆流罪に、豐成その子乙繩も左遷せらる。しかるに、獨リ首謀者奈良麻呂は如何になりしや、誅されたりとも、流されたりとも云へど詳かならず。橘氏系圖には「天平勝賓九、七、二誅さる。丗七」と見ゆ。後仁明朝に從三位を贈り、「倚伏測り難く、福祿長からず、忠貞遂げざるを悲しむ云々」との詔さへ下され、後又大納言を贈り、更に太政大臣正一位を贈らる。仲廣排斥の企は一敗地にまみれしも、死して此の榮譽を擔ふ、彼また地下に冥するを得ん。彼は甞つて大學頭たり。又承和元年十月紀に「官に沒收せし奈良麻呂の家書四百八十餘卷」と見ゆるを以つて、彼が學問上に蘊蓄の深かりしを窺ふべし。10橘〓友奈良麻呂の第に諸方、その子に正方あれど、事蹟著はれず。又奈良麻呂には、島田麻呂、〓友、安麻呂、入居など四人の子あれど、やうやく四位に達せしのみ。されど、その内〓友は、なか〓〓の人物にて、幼少より沈厚、群書を渉盛す。身の丈六尺二寸、眉目は〓けるが如擧止甚だみやびやかなれば、寶龜八年、高麗國使の來たりし時、彼れ年·弱冠なりしも、姿儀魁偉なるより、違客の接對役となる。その時、高麗大使献可大夫史都蒙、その妻を見て、通事たりし舎人山於野上に向ひ如何なる人かを問ふ。野上·對ふるに、都の一白面なるを以てせしが、都業の曰はく、此の人の毛骨常人に變れリ、子孫大いて貴からんと。俊才も病氣には勝てずして、延曆五年、內舍人になりしのみにて、その八年病卒す。年卅二。されど、その女は皇后に上リ、男は大臣に任ぜられ、彼も弘仁中、從三位を贈られ、仁明帝卽位の後、正位を賜はり、その墓·相樂郡排山墓には守家一戶を置かる。承和六年には更に太政大臣を贈られ、古今集に「かはづなく井手の山吹散りにけり、花の盛にあはまし物を」との詠を載せり。諸兄公以來、代々井手に橋氏の別業のありしを知るべしo 11檀林皇后奈良麻呂が廢立を謀りしに關はらず、〓友が僅に内含人にて卒せしに係はらず、共に正一位太政大臣を贈らるゝに至りしは檀林皇后が、此の氏より出で給ひしによる。橋氏を起せしは橘三千代にて、その隆盛を繼續せしめしは檀林皇后たる也。されど檀林皇后は橘氏一家を興せし女丈夫とするは誤れり、國史上の大女性たればなり。初め〓友、田口氏の女を娶りて后を生む。后·諱は嘉智子、資性寬和、風容絶異、手を垂るれば膝を過ぎ、襞·地を引くと云ひ傳へらる。嵯峨帝·未だ親王にて御座せし頃、后を納れて妃となし給ひ、寵隅日に隆、天皇卽位の後、弘仁の初め、拜して夫人となり、後數日、「針の孔より出でゝ、左市中に立つ」と夢み、又六年七月七日、后,佛の環珞を著く」と夢み、五六日にして皇后に立てられ、淳和朝には皇太后に、仁明朝には太皇太后たり。后·信仰の念强く、一寺を建てゝ檀林寺と云ふ。檀林皇后の名は、これより起る。檀林寺は龜尾山の東面にありて、もと嵯峨天皇の別館たりしを、后·捨てゝ寺とレ、比丘尼持律者を遣はして入住せしめられ、仁明帝その功德を助け給ひ、五百戶の封を寄せらる(後その跡は淨金剛院となり、二轉して天龍寺となる)。后は、また弟氏公と共に學校を建て、橋氏の子弟に勸めて經書を誦習せしむ。學館院これなり。後世、橘氏に學者輩出したるは此の學校に負ふ所·多かるべし。延いては平安文化の上に貢獻する又多し。後仁明帝不豫、甚だ篤きに及び、后·哀感毀容、遂に髪を剃り尼となり、其冥救を祈られしも天皇の崩後、相尋いて崩ぜらる。御壽六十五。12橋系圖今尊卑分脈、橘氏諸系圖によリ略系を示せば次の如し。〓達帝-難波親王(母夫人春日老女子) -大俣王- (栗隈王) -美努王(大宰大感) (〓野) -御井子利武●紀:永名神歌曲逸勢-眞直-葛直-女子左中將電話貯奥〓隆-春行-實利-正通:特价值大舍人願宮內國三化け屋九成界殿文博-眞村-峰範-廣相Se IN峰守·お腹附中精苦att :長谷雄-海雄-茂枝內健康筑前守:數
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)