立羽(5)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
5橘宿禰前項氏に同じ。縣犬養宿禰三千代に賜へる姓にして、「橘は菓物の王なり。その枝は霜雪を恐れずして繁茂し、葉は寒暑を凌ぎて凋まず。しかも光は球玉と爭ひ、色は金銀と交りて益々美し。故に橋を氏とせよ」と。時は和銅元年十一月二十五日、元明天皇にけち去る廿一日大甞會を行はせられ、目出度終りしにより酒を臣下に賜ひ、持統天皇以來、內命婦として朝廷に仕へし三千代の功勞を追憶され、橘を杯に浮べ此の勅に添へて、彼に賜ひしなり。遠き昔、忠臣田道間守が千辛萬苦の後、常世國より腐らせし橘は、其の香と共に、芳しき傳說あるより、三千代にふさはしと思し召されしならん。これより彼は縣犬養橘三千代と呼ばる。三千代は縣犬養東人の女にして、長じて數達天皇の曾孫美努王に嫁ぎ、葛城王(後に橘諸兄)と牟漏女王とを產み、その後藤原四家の元祖不比等と結婚して、有名なる光明皇后を產みまつる。この二度の結婚と、その生みし子とを擧ぐるのみにても、三千代は、當時の歷史より離すを得ざる重要なる位置を占むるを感ずべし。猶ほ彼は非常なる美と才との持主にて、のみならず、持銃天皇より五代の間、内命婦として大功を立て、殊に聖武天皇の御世には、皇后の母として、その勢力の大なりしは想像以上なりき。藤原氏の勢力は三千代によりて維持され、後の橘氏の勢力も三千代より生れしにて、奈良朝に於いて最も注目すべき婦人たる也。神龜四年には正三位に登る、當時歲は六十歲餘か。その後天平五年に薨じ、朝延にては散一位に准じ、特に高安王を遺はして、葬儀を監督せしめ、以つて彼女の最後を飾れり。なほ次項以下を見よ。6〓達帝裔の橘宿禰前項三千代の子諸兄·奏して母姓を繼ぎたる也。天平八年十一月紀に「從三位葛城王(請兄の事也)、從四位上佐爲王等·上表して曰す。臣葛城等·言す、去る天平五年、故知太政官事一品舎人親王、大將軍一品新田部親王、勅を宣べて曰ふ、聞道するに、諸王等·臣連の姓を賜ひて、朝廷に供奉せんと願ふど。是の故に王等を召して、其の狀を間はしむと云へり。臣葛城等、本·此の情を儘へども、上達するに由なかりき。幸に恩勅に過ひ、味死以聞す。昔者、輕堺原大宮御字天皇(孝元)の曾孫·建内宿禰、君に事ふるの忠を盡し、人臣の節を致し、創めて八氏の祖と爲り、永く萬代の基を遣せり。此より以來姓を賜ひ、氏を命じ、或は眞人、或は朝臣、承和七年に 源は王家に始り、流は臣氏に終る。飛鳥浮加原大宮·御大八洲天皇(天武)、德は四海を覆ひ、威は八荒に震ふ。欽明文思、天を經とし地を韓とす。太上天皇、内は四德を脩め、外は萬民を撫し、化は翼麟に及び、澤は草木に被れリ。後太上天皇、先軌を改むる無く、守りて違はず、率土〓秤、民·以つて寧一なり。時に、葛城の親母(三千代)·從一位縣犬養橘宿禰を賜ふ。上は淨御原朝廷を歷て下は藤原大宮に達ぶ。君に事へて命を〓し、孝を移して忠と爲し、夙夜·勞を忘れ、累代·力を竭す。和銅元年十一月二十一日、學國·大甞に供奉し、二十五日の御宴に天皇·忠誠の至を譽め、浮杯の橘を賜ひ、勃して宣はく、橘は果子の長上、人の好む所、柯は霜雪を凌ぎて繁茂し、葉は寒暑を經て、形まず。球玉と共に光を競ひ、金銀と交り、以つて逾美な〃。是を以つて、汝の姓として橘宿禰を賜ふ也。而るに今·瀧嗣の者先し、恐らくは明詔を失はん。伏して惟んみるに皇帝陛下、天下に光宅し、八埏に充塞す。化は海路の通ずる所を被ひ、德は陸道の極まる所を蓋ふ。方船の貢ありて、府エ空しき時先く、河圖の靈、史に記するに絕えず。四民·業を安じ、萬姓·衢に福ふ。臣葛城·幸に遭時の恩を蒙り濫りに九卿の末に接す。進んで可否を以つてす。志·忠を盡すに在り。身·絳間に隆く、子·家に廉んず。夫れ王が姓を賜ひ、氏を定むる、由來遠し矣。是を以つて、臣葛城等、順くは橘宿禰の姓を賜ひ、先帝の厚命を戴き、橘氏の殊名を流して、萬歲に窮り無く、千葉に相傳へんと。壬辰、詔して宣ふ、從三位葛城王等の表を省み、具に意趣を知る。王等·情·謙讓に深く、志·觀を顯すに在り、皇族の高名を辭し、外家の橘姓を請ふ。所執を尋思するに、誠に時宜を得たり、一に來乞に依りて、橘宿禰を賜ふ。千秋萬歲、相繼いて無窮ならん」と見ゆ。また萬葉集卷六に「天平八年十一月、左大辨葛城王等、姓を橋氏と賜ふの時、御製の歌」として、「橋は、實さへ、花さへ、其の葉さへ、枝に霜降れど、いや常磐の樹」との歌を載せたり。後朝臣姓を賜ふ。猶ほ實態九年九月紀に「部して橘宿禰綿裳に姓を三笠朝臣と賜ふ」と云ふも見ゆ。但しこれには疑あり、ミカサ條を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)