石(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
-ハクヒ撞別は季仁皇子で、其の妹に景行帝妃だから、其の子石城別は仲哀應神頃か、少くも仁德朝頃迄の人とせねばならぬ。それが泊瀨朝倉朝、即ち雄略朝に羽咋國造となつたとは信じられぬ。これは賀我國造の大兄彥君の方が、石撞別四世孫だから、時代が合つて居る。恐らく、この二條の文は、其の實一つなのが錯亂して二つとなつたもので、大兄彥君は羽咋國造の初代ではなからうか。加宜と賀我と同地方に二國造を載せて居るのはをかしいが、羽咋は加宜と地續きの隣りあひである事などから考へると、雄略朝頃は、羽昨國が加宜國の一部であつたのを、此の朝になつて一國を分置し、羽咋國造を任じた爲、羽咋國造は、又一に賀我の國造とも傳へらるゝに至つたのであらう。要するに羽咋國造以外、更に賀我國造の存在を認めにくいから、此の賀我國造の文は羽咋國造條に合せ、一條を削除すべきである。斯樣に賀我國造は事實あつたものと認めにくいが、三尾氏族は一時、此の越前国三國地方に住んで居たと思ふ。一個、三尾氏族と云ふのは、垂仁皇子石衝別王の後で、近江國高島郡三尾が其の根確地である。(和名抄、高島郡に美乎〓を收め、神名式同地水尾紳社は此の氏の氏神也)。此の三尾の地は、東が琵琶湖で、西は若狹との間に山脈があつて、東西共に發展の餘地がない。南方から此の地に入つた此の氏が、少しでも活動しようと云ふには、北方越前に出なければならぬ。其の考へ通り、此の氏は先づ越前に出で、それから能登に行つて居る、それが前述した羽咋國造である。此の氏族が越前に住居して居た事實は、繼體帝の御母振姫が此の國の方で、且つ此の氏族であらせられた事丈で容易に了解できよう。振姫の系圖は上宮記に「伊久牟尼利比古大王(垂仁天皇)の生める御兒伊波部久和希(石衝別王)、兒偉波智和希(石城別王)、見伊波己里和氣、兒麻和加介、兒阿加波智君、兒乎波智君·金奴臣(江沼臣)の祖、名は阿那爾比彌を娶りて、生める兒都奴牟斯君、妹布利比彌命也」(布利比彌は振姫である)と、此の文は繼體紀に「男大迹天皇云々、母を振媛と曰ふ。振媛は活目(垂仁)天皇七世の孫也」とあると符合する確實なる傳へである。これを系圖で表はすと「垂仁天皇-石衝別-石城別-大五 ハクヒハクヒ母布利比彌命言して日ふ、我獨リ王子を親族部の無き國に持ち抱き、唯我獨り養ひ育てひたし難しと、言擧して宣ふ布利比彌の父祖の早く三尾の本家より別れたるを知る事が出來る。親族部が無いとは、近い親族のない事である。其の實此の三尾の地は、暖先祖の地でな〓)。田の時、祖の在る三國に下リ去りて、多加牟久の村に坐しましき」(媛の父祖阿加波智君や、平波智君の三國に住居せられたのがわかる)。と見え、又繼體記に「母を振媛と申す。振殘は活目天皇(埀仁帝)の七世の孫也。天皇の父·振媛の顏容·妹妙にして甚だ嫩色あるを聞き給ひ、近江國高島郡三尾の別業より使を遣はして、三國坂中井に聘せしめ、納れて以つて妃となし、遂に天皇を產み給ふ。天皇·幼年にして父王薨ず。振緩·麺ち歎じて曰く、妾·今遠く桑梓を離る、安ぞ能く膝養するを得んや、余高向(高向は越前國の邑名出に歸事して天皇を養ひ奉らん」とあるので、此の氏族が三國地方に居つた事がわかる』と。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)