石川
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
義尊(民話)詮持(中醫小型)光俊(小平七郞三郞)中務少輔滿持-宮内大輔滿朝駿河守義光(初長太郞番生福元駿河守持光中務小隊初精華三郎治部大輔宗光-成光(中務大輔)駿河守尙光治部小輔-駿河守植光舍光右衞門大夫白木氏十九代伊勢守民晴光北大健康大大住通販大和守昭光(佳四男ヲ配女大和守昭光(佳臺北田此の系圖基だ疑ふべし。次項に云はむ。三蘆城は石川町に有り、源頼親の二男賴道、其子有光、康平五年奥州征伐の軍功に依り、石川の地を賜り、義家に代り仙道七郡を統治す。時に石川莊石川〓八幡山に城き、其食邑を石川郡と改め、本國河内上泉の地名を引き、居城の地を下泉と稱し、又泉の庄を置き。二十五代石川昭光の時、天正十八年伊達政宗に附隨し豊臣秀吉の命に從はずして、城地を沒收せられ、仙臺角田に退き廢城となる。康平五年より五百三十一年、源家一族繁榮の他、今は僅に城跡を殘すのみと。石川家御歷代御法號。巖峯寺殿仁勇建眞大居士(康平五年九月十日卒)賴遠公。地藏院殿良寬公榮大居士(應德三年六月六日卒五十七歲)有光公。大方繼光大居士(承德三年九月八日卒)基光公。明輝道寬大居士(保安二年四月朔日卒)光義公。需水天廣大居士(治承元年七月六日卒)義季쏭柴光廣門大居士(寳治二年三月四日卒)廣季公。雷聲之中大居士(文永六年二月二日卒)光貞公。休廣天息大居士(正應三年十二月八日卒)光長公。微聽笛聲大居士(德治二年六月五日卒)光盛公。山月盛門大居士(文保二年八月二日卒)盛義쏭通山道宗大居士(元德元年四月三日卒)家光公。堅大良固大居士(建武二年四月朔日卒)時光公。長輝月擧大居士(曆應四年六月三日卒)貞光公。觀妙刄法大居士(延元元年六月五日卒)義光公。延林廣仙大居士(觀應三年十一月四日卒)詮持쏭躰用喜康大居士(明德四年八月朔日卒)滿持公。貞休良治大居士(應永廿年正月五日卒)滿朝公。右白華山巖峯寺は承保年中石川有光の開基にして、其長子光祐(長治二年六月十八日卒七十三歲)二子祐有、大槻城に住したるも其後胤不明なり。されど此等の系圖には種々の疑義あり、次の項を見よ。見聞諸家紋に本郡代官に補せられ、泉燕に居り石川氏と稱す。足利氏の時に至つて、其の私邑數十村を呼んで石川郡と曰ふ」と載せたリ。果して然らば此の氏は物部氏の族たるなり。(但し柳津の事は第廿一項を參照せよ)石川氏の起原に關しては猶ほ石川風土記に「源頼義、義家、前九年の役を終へて歸洛の時、石川郡の澤井、赤羽の間に、御留地館とてあるに逼留して、我が頻葉の將一人を留めて仙道の固め、且は白川の關を抑へしめんとて、河內國上泉の城主福田安藝守源有光に石川の内六十餘〓を與へて歸京す」と見え、又永慶軍記には河内石川氏と混じて、〓和源氏多田滿仲五代の孫陸奥守義光の末葉なりしが、鎌倉右幕下、奥羽二州の探題として數〓を宛行はれ、石川の郷に据え置る」と0蓋し起原の詳かならざるまゝに種々傳へたりと考へらる、坂上流石川氏をも參照せよ。次に此の石川氏に關する諸系圖は何れも南北朝の頃は、貞光-義光-註持とすれど地名辭書も疑へる如く、七郞義光は建武三年七月山門の役に戰死せるに、