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矢沼(8)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

8武蔵建武二年十一月九日文書に矢野伊賀守入道善久跡、所領事。須江挪(比企郡内)、小泉〓(男衾郡内)、片楊郷(足立郡内)、久米宿在家六間(多東郡内)」など見え、又男衾郡本田村〓念寺康安の寄附狀に「武蔵国崎四郡鎌塚郷矢野加賀小次郞、同又五郞·知行跡半分の事、寄附する所の狀件の如し。康安二年六月六日、佐兵衞督源朝臣」と載せ、又大石系圖に矢野安藝守範奉等見ゆ。又新編風土記、橋樹郡上菅生村條に「里正丈右衞門が藏する文書に、上菅生稱矢野左馬助が知行分を岡本、小栗の兩人にあづけをきしか今の戶主を矢野源三郡とは、彼が指導をうくべきよし、本多佐渡守正が主百姓等に命ぜし事あり。されば矢野左馬助といひしものも、むかし、この地を領せしと見ゆ。此の人は北條家の家人なりしや。かの所領帳に矢野彦六といひしもの、神奈川を領せしこと見ゆれば、かく程近の地にて同姓の人領せしよしなれば、かた〓〓一族にてもありしか」と又有名なる彈左奮門も此の氏にして、府内備考に「彈左衞門の宅地(新町)。新町は今戶町の四の方、山谷掘の北にあり、彈左衞門が宅地なり。昔は日本橋室町邊に住せしが、御入國の後、此所に移されしと云ふ。此の彈左衞門が先祖は播州池田の產にて、相州鎌倉に來て、右大將賴朝に仕へて、證文を賜はり、子孫いづれの比にや武州江戶に來り、天正十八年御入國の時、其の比、彈左衛門·當國府中までいで、鎌倉より代々役をつとむるよし申上げしにより、御役等元のごとく命ぜられしと云ふ。此の町內に猿屋町と稱する處あり、彼の手下にて猿を春負ひ、編笠かぶりて市中を米錢乞ありく者の住居なり。こはむかし鳥越猿屋町に住せしを、按摩邊川地と成りされしと云へり。享保四年彈左衞門が町奉行へ書出せし由諸書あり」to又江戶官論秘鑑に異說ありて「彈左衞門の先祖は元我が國の人に非ず。秦の左衞門武虎とて、秦人の漂泊して我が朝にさまよひけるもののすえ也しが、武虎·天性自然と武勇たくましく、誠に萬夫不當の强兵たりしかば、郡國の士太夫·得て臣とせん事を願ひけるが、其の頃、武將は但馬守平正盛·源義親を追討して、院の御氣色宜しく、ゆゝしきに振廻ふまゝに、武虎をうながして家臣とせり。武虎も勢ひにせめられ、臣として仕へ居たりけるに、正盛に一人の娘あり、容親世に願ひなく、窈窕輝娟たる粧ひ、古今に比すべきものなきほどなりしかば、思ひを寄せ、胸を焦すものいくらといふ事なき中に、さもむくつけき武虎いかなる隙よリ見初けむ、又なき思に伏ししづみける」云々。後賴朝に仕ふと。系圖には「鎌倉住人藤原彈左衞門賴兼·頼朝より花押書を賜ふ」と。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

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