矢切(8)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
8抵津細川氏守護時代、その守護代たりき。細川條參照。氏人は應仁記卷三に藥師寺與一を載せ、また細川兩家記に「攝津守護代に藝師寺奥一元一を御使にて、阿波國へ差下さる云々」。又「藝師寺與市.永正元年甲子九月初に、淀の城へたて籠りける。與一弟の奥次を初めとして、御屋形樣へ參る云々」と。奥市敗死し、「第の奥次は御かん有りて、此度の恩賞に欄ヤクシシヤクシシヤクシシ大丈夫 ヤクシシ河內守直政の一族として、内藤主馬助、山中遠江守、國巢太郞、河口壹岐、赤坂大和守と、其の名を齊うし、明應年中、河内國に住す。其の子與一郞行政·赤松氏に仕へて老職たりと。その後、赤松氏產へ、其の子與三左衞門行信は備前に流浪し、宮内に住す。但し天文十七年九月、高田城主三浦貞久病死し、尼子氏の爲に陷落したるを以て、其の子弟貞勝、貞盛等、兩備の間に居り、日夜焦慮して名士と結び、水祿二年三月、遂に兵を擧げて尼子の將宇山飛驒守を討ち、高田城を同復す。與三左衞門行信·三浦氏を助けて此の役に參加し、敵將大塚、加山を斬り、功に據りて四河内、向津矢の兩村を領し、四河内に八幡神社を改築して、鎭守と爲し、其の四に居る。天正二年、三浦氏滅亡、其の子與右衞門行直繼ぐ云々(名聞集)。眞庭郡四河内邑の此の氏は百五十六舊家の一たり。又備前の此の氏は片岡條參照。11備中窪屋郡眞壁の領主藥師寺次郞左奮門公義は、田原藤太秀婦の裔にして、太平記に眞壁氏とあるもの是也(府志、編成志)と云ふヤクシシ12備後太平記卷八に「備後國の住人薬師寺八郞」見ゆ。13阿波第八項、及び細川、三好條參照。又傳ふ、昔名東郡井戶の妙服寺に孵·住ナ、藥師寺政村·射て殺すと。この政村は日奉姓、藥師寺阿波守と稱して當邑に居る。東國小山氏の族·長村の子にして、政村の子政氏は左衞門尉に任ず。其の族黨に村田、田村等あり(阿波志)と傳ふ。14豐前豐後上毛郡の豪族にして、應永正長の頃には藥師寺山城守ありとぞ。又井桁の中に橋を家紋とするあり。15幕臣橘姓胤長を祖とす。家紋丸に三桶.五七桐。寛政系譜に藥師寺宗仙院元常の二男次郞左衞門元倍(小平太、元祿幕臣)より系あり。ヤクシシ-ヤクチきちら「備後國の住人薬同名(初名善五郞、元著)-元則」と見ゆ。16雜載書家に華師寺方正正信あり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)