眞里谷武
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
條參照。〓嗣の後、信勝、信〓、信保、信助、信隆、信應等、相繼ぎて之に居り、其の間、久留里、久保田、佐貫、椎津、峯上、環城、大多喜等を略有すと傳ふれど、其の詳細は明白ならず。唯、廳南武田の後孫に上埴生郡山内村武田氏あり。又眞里谷眞如寺、妙泉寺等に、僅に遺書を傳ふるのみ也o 13廳南武田氏長柄郡廳南に居城す、チヤウナン條參照。信長の長子信高の裔なりと。傳へ云ふ、「廉正年中、武田信長(三河入道)·鼻南に築城し、子孫信高(笹子落草紙には信隆に作る)、道信、宗信、吉信、〓信、豐信等、相權ぎて、之れに居る(鎌倉大草紙、鎌倉九代後記、北條五代記、里見代々記、及び武田系圖)と。武田と見ゆ。紋諸帳には武田·割菱と載せたり10武藏の武田氏橘樹郡大曾根村に武田谷あり、古へ武田彈正なる者住せりと云ふ。また柏木に武田右衞門あり、右衞門櫻にて名高し。11上總の武田氏甲斐國守武田安藝守信滿入道明庵の子三河守信長(八郞、惡八郎右馬助)の後と傳ふ。初め信滿·應永二十四年、足利公方持氏と戰ひて敗死初め信長·眞里谷に卒し、子信高めとき明應三年八月、眞里谷、久保田、佐貫、椎津の諸城を以つて、里見義成に降る。その奇·豐信のとき、天正十八年、德川氏の將本多忠勝に抗して敗死し、城陷り家亡ぶ。豐信は兵部少輔と稱し、或は諱を信榮に作る(町村志)。又信榮は廳南龍北城主信熈の子にて、城陷るの後、信濃に奔り、松代長國寺に潜居す(野史)と云ふ。14佐貫の武田氏天羽郡佐貫にありし武田氏にして、佐貫城主家記に「峰上の城主武田入道全芳の子義廣は、佐貫城を築き、後里見義弘·之に居る」と載せ、又佐貫八幡宮(鶴峯八幡)の神官小川氏所藏棟札に、「武田兵部大夫源朝臣信嗣。永正四年閏十一月廿八日」と見ゆ(國志)。里見、久留里、佐貫等の條參照。15椎津の武田氏海上郡(市原郡)椎津城にありし武田氏にして、明應以前、眞里谷氏の築く所と云ふ。里見軍記、北條五代記に見え、里見記天文廿一年に權津城主眞里谷信政」と。又町村志に「椎津南町の行傳寺は、日蓮宗を奉じ、椎津城主又太郞の創建とつたふ」と。16その他、峰上(眞里谷道環)、鷹北等の事は、その條、及び蓮里居·里見等の條を見よ。又地理志料に「山内に武田官兵衞あり。長南城主武田氏の裔なり。德川氏。特に郷士を以つて待過す」と。17下總の武田氏當國に健田郷あり、健田條を見よ。地理志料に「殘篇風土記に香取郡健田莊見ゆ。又曾我物語に『下總の人·武田太郞信義』あり、或は本土の人か」と。非ならん。18常陸の武田氏當國に武田郷あり、前に云へり。關係あらん。新編國志に「武田·那珂郡武田〓よリ起る。新羅三郞義光の三子義〓·刑部三郞と稱す。初め那珂郡武田〓に居リ、武田冠者と稱し、父義光の嗣たり。子の〓光·大治五年罪あり、其の父子を甲斐に配し、市河庄に置く。是に由りて、子孫永く甲斐の人たり。清光の孫伊澤五郞信光の五子岩崎五郞七郞信隆、其子信直·八代郡一宮に居る。其の四世の後を信氏と曰ふ、子無し、其の宗·武田信春の二子信久を養ひて嗣とす」云々と。また行方郡に武田村あり。郡郷考等に據るに「この地もと高家郷なり。武田系譜、足利氏の時、甲斐の武田族信久、始めて此に邑して子孫傳領す。因りて改めて武田郷と稱す」と云ふ。文和の鹿島大爾宣文書に「武田式部大夫信高」あり、又遠江守と稱す。又應安の香取海夫注文に「鳴田津、武田知行」とo武田城あり、武田民部大夫·築き、淡路守に至リ、天正中佐竹氏のために亡ぶと。また「天正十九年、武田信房の時、佐竹氏に滅さる」と載せ、和光院過去帳に「武田殿」を擧ぐ。次條參照。幕末動王の義士武田耕雲齋(彥九郞正生、伊賀守)は、もと跡部氏なり。武田萬千代丸の後なれば武田に復すと云ふ。千五百石を領す。第二十項參照。19桓武平氏これも常陸の武田氏にして大掾傳記に「吉田太郞·此の一族武田云々」と載せ、又大掾系圖に「吉田廣幹の子勝盛(武田七郞)」と見ゆ。また一本に「吉田盛幹の子幹晴」の後とし、新編國志に「武田·那珂郡武田村より出づ」と云ふ。鹿島治亂記に「府中の幕下武田云々」とある者これか。20松平氏族德川家康の七男、甲州武田氏を冒して、武田七郞信吉(萬千代麿)と タケタタケタタケタ言稱し、下總佐倉城より移りて、水戸二十四萬石を領す。嗣なくして絕ゆ。トタガハ條を見よ。21 .佐々木氏族江戶幕臣にして、第十二項眞里谷武田の後と云へど、寛永、寛政の兩系圖は、共に宇多源氏に收む。「文左衞門信乘-文左衞門-賴母」也22陸前隆中の武田氏膽澤郡にあり。仙臺封內記に「小山邑德岡壘は武田五郞左衞門の居る所」とまた伊達正宗家臣に武田氏あり。23〓和源氏南部氏族南部氏が武田氏の一族なる事は、ナンプ條を見よ。また南部二十二代右馬頭政康の五男靱負秀範·武田と稱す、ケマナイ條に詳かなり。24堀越の武田氏陸奥國津輕郡堀越邑に在りし武田氏にして、津輕志留適に堀越城は平川の四岸に其の跡あり。もと武田氏の居城也。武田氏の先は、初め我が光信公と共に津輕に來り、赤石に居り、其の後、南部の幕下となりて堀越に住せり。武田紀伊守に至り、子なきを以つて、政信公の子を養ひ家を嗣がしめ
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)