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盛安(3)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

3居城榛澤郡花園城に據る、新編風土記に『花園城は末野村の中程にあり。西南の方は都べてから堀にて、山の高さ二德州焦島龍路 町程芝山にて、松の木立あり。新築の初めを導るに、住古相模守小野時季が九代の孫五郞政行·始めて此の山の項に當城を築き、猪股を改めて在名をもつて藤田と號す。歷世相續して、三郞大夫行保、右衞門尉能國、左衞門尉能兼、太郞兵衛能行、左衞門尉重國、右馬助助國、三重県郞重行、右衞門尉重廉、右衞門太郡秦氏、播部左衞門氏行、左衞門太郞行景、三郞左衞門國行、左衞門大夫國村、右衞門佐康邦まで十五代存城す。按ずるに東鑑壽永三年三月五日慊に「去月、攝津國一谷に於いて平家を征罰せらるゝの日、武蔵國住人藤田三郞行康·討死し訖んぬ。遺跡は子息能國傳領す。御下文に云ふ、件の行康·平家合戰の時、最前進出して其の身を討取られ訖る。かつて彼の跡所知の所領等を相違なく、男小三郞能國に相傳知行せしむべきの由云さ름傳領の證とすべし。關東戰爭の時、管領山内上杉氏に屬し、四家老の一に居りしは、康邦交祖の時よりにや。當郡、及び幅羅、男衾の三郡を領して家聲を強さざりしが、天文十五年四月、北條左京大夫氏夜軍に福上杉に打得ちしに及んで、康邦時勢を考へ、遂に北條氏に通ず。氏康·藤田が當國の舊家なれば、多年人心を得し事を思ひ、其の末子新太郞氏邦を養子として親族の約を成んとす。康邦是に應じ、抱の城岩田天神山.及び當城を氏邦に膿り、其の身は長子彌八郞、二男彌六郞二人を携へて、郡中用土の城に退きぬ。氏康又氏邦が武名を慕ひ、右衞門佐の名を請ひて、四男新四郞に奥へければ、康邦は新左衞門と改め、父子共に家號を、用土と改む。夫より氏邦の持となりしが、天正十八年鉢形沒落の時、當城もともにをちいれり』と見ゆ。秩父、北條、川土條を見よ。また秩父郡天神山城(井戶村)は、同書に「城山、村の北界小名根古屋に屬するゆへ根古屋城とも、天神山とも唱ふ。城山の地域は隣村岩田村の地と入交り、區別をなせり。弘治年間まで、藤田右衞門佐康邦の居城なり」と。又岩田村條に「城山、一に天神山とも云ふ、山の麓に天神社あり。此の城地は藤田右衞門佐重利が築きし城疊なり。重利は代々上杉の旗下の将なりけるが、上杉家衰へ、天文年中河北緯氏康利を得て々々を奮ひければ、此の時より北條氏に屬し、氏康が三男新太郞氏邦を聟養子とし、鉢形の城を氏邦にゆづり、己は爰の天神山に城を構へて移りける。其の後、天文十七年の冬、氏廉が六男氏光に、重利が武勇にあやかれとて、重利に名を請ひ求て、藤田右衞門佐氏光と名乗らせける。此つ天神山の城を氏光にゆづり、重利は又用土に城を構へ移り、是より用土新左衞門重利と名乘れり。されば爰に住せしは、氏廉の六男にて藤田右衞門佐氏光が住せし城趾なり、氏光後に右衞門佐康邦といひしなり」と。又足立郡天神山城(石戶宿村)も隔谷上杉氏の家人藤田八右衞門と云ふ人居りし所なりといへり。又天正十八年、上杉の先鋒藤田能登·國峰城を攻拔く。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

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