百七十
概要
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姓氏家系大辞典
頁、その他は稲葉條を見よ。13伊勢の本田氏一に本多氏に作る。飯高郡の豪族にして、船江城に據る。勢州四家記に本田左京亮、船江の城の守護にして、三河後風土記に「船江の城主本多左京亮も、城を開いて、蒲生に渡すのみならず、其の家人と成つたりけり」など見ゆ。猶ほ舟木條參照。船江城は三國地志に「本多左京亮·數代居守、豐太闇の爲に沒せらる」と云ひ、名勝志に「船江城址·船江村にあり。永祿天正の際、北畠氏の臣本田美作守、其子親康(一說に親康の父を右京亮と云ふ。右京亮の父を美作守とし、三世に作る。今暫く北畠物語、伊勢兵亂記に從ふ)之に居る。時に親廉·尙ほ幼なり、叔父右衞門尉·其の家政を攝す。永祿十二年、織田信長·師を出し、阿坂城を攻む。道·此の地を過ぐ。乙部藤政日ふ、船江は要衝の地、諸士の會する所たり。敵·此に來る、是れ本を斷つの計なり。宜しく之を山際に拒ぐべしと。城兵森菊右衞門、中四〓右奮門等出で、小金塚に迎へ撃つT、大に之を破る。翌夜、信長の兵復た進む。公門右郵產香門尉·亦兵を出て敵兵·備へあり、達に敗らる。北畠氏亡ぶるに及び、親康·織田氏に屬す。天正中、信雄に從ひ、羽乗秀吉に抗し、又窃に欵を秀吉に通ず。和成るに及びて、遂に其の領地を失ふ。其の子千勝丸·蒲生氏〓に仕へ、九助と稱す」(多藝錄、伊勢兵亂記、五鈴遺警)と14攝津の本田氏保元二年三月十六日、本田太八郞あり、四成郡(作吉郡)粉濱村を開發すと傳へらる。15赤松氏族上月系圖に「上月左近將監滿秀-右衞門伯秀盛(播州に出でゝ阿州に入り、姓を本田と改む) -八郞左衞門尉信氏(氏を吉浦と改む)-信貞」と載せたり。尼子氏の最後上月城に據りし士に本田平十郞あり。關係あるか。16肥前の本田氏少貳氏配下の將に本多氏·見え、又大村藩に本田氏あり、藤原石川氏の裔と云ふ。又鐵洲本田章三は儒者として名あり。17藤原北家宇都宮略系圖に「道兼(兼家二男)本田八郞、正二位、右大將、關白、右大臣)」と見ゆ。18菊池氏菊池保田系圖則隆建左近時監左父小田野馬守政府、延久二年·肥後守に任じて、城を菊池郡染川村に築く)」と見ゆ、キクチ條參照。19藤原姓薩隅の大族にして、一に桓武平氏千葉族と云ふ、第五項參照。傳へ云+、嶋津思久·建久四年賴朝の仰を撃り、薩摩の國の守護職を賜ひしが、其の身は大番役に従つて、都に在ること凡そ三年、まづ郞等本田次郞を、薩摩の國に下し、國務の沙汰せしむ。同じき七年、本田·上洛して、忠久を迎へ國に下る。忠久まづ當國出水の山に着きて、莊內に移る(藩翰語)と。而して出水郡木牟禮城は文治二年、本田貞親の築く所と云ひ、地理纂考に「木牟禮城。文治二年·嶋津忠久·薩隅日三國の地頭職に封せられ、家臣本田貞親·先立つて山門院に下り、賊を平げ當城を築く」と見え、又同地竹林城も本田貞親の居城と傳ふ。爾來、島津氏の重臣にして、御家老記に「忠久公(文治二年丙午より、嘉祿三年迄四十二年)·本田氏、酒匂氏。忠時公、左衛門尉藤原重賴忠宗公·本田左衞門次郎親蒙入道道意、入道慈順。氏久公·本田信壽守重量元久公司本田次郎左衛門廿コ大島津忠久が薩職に補せられ家臣本田次郞貞親·先立つて下るの時、畠山重忠の下知にて、島津の守護神として建立すと傳へらる。又萎刈郡牛根据(大隅郡、今肝付郡)麓村(松ヶ崎)入船城は一に牛根城とも云ふ、牛根、池袋等の居城なりしが、天文の頃、小川尾張武明(紀氏、平山の庶流)の領となり、更に本田紀伊董親に移りしが、董親·後に牛根を以つて肝付氏に奥ふ。21薩摩の本田氏第十項氏の族にして、隈之城〓宮里村宮里城は、舊記に「宮里郡司孫九郞久俣」と見え、又天正四年の舊記には「宮里領主平田平二郎」、同八年には「宮里地頭本田東市正」等と載せたれば、是等の居城なりけんと。又島津藩第一の崇〓社·諏訪宮の大宮司は此の氏にして、三國神社傳記に「諏訪大明神大宮司本田氏」と載せ、その記錄に「九代忠國公御代、永享十年本田信濃守氏親·書付け置きし書に云々。五月七日、氏親在判」と見え、又「居頭社役本田.云々」、又「鹿兒島諏訪御佐山の御祭の次第、寬正六年云々。本田治部少輔宗後に忠安子。久豊公·本田信濃重恒。忠國公·本田因幡守國親。立久公·本田三郞五郞宗親。忠昌公·本田次郞左衞門尉親尙。勝久公·本田因幡守兼親、本田刑部少輔千代、(忠臺)。義久公·本田下野介親貞入道三省、本田六左衛門尉親正、本田參河守正親、本田與左衞門尉公親義弘公·本田源右衛門尉親高」などと載せたり。その他は以下三項を見よ。20大隅の本田氏前項氏は久しく大隅國守護代にして、地理纂考、囎唹郡〓水〓條に「文治二年、島津忠久·三ヶ國の封に就いて、家臣本田貞親を大隅の守護代とす。貞親より九世信濃觀安に至り、世襲して同〓清水城を治所とす。親安の子董親に至り、謀反して日向國に走る」と。その居所は第子丸村〓水城にして、初め治安元年、稅所篤如·贈於郡を領して子孫世襲せしが、島津忠久·封に就きし際、家臣本田貞親·當國の守護代となりて當城を治所とす。されど稅所氏、守護の命にせぜして屢々交戰す。貞親より十代本田董親に至り、勢甚だ大、恋に近境を併を恃み。天文十七族本田實親が居所姫城を攻む。よりて島津貴久·其の將伊集院久期に命じて董親父子を伐しtoo董親防ぐ能はずして降を乞ひ、幾程もなく又叛く。同年七月再び久朗に命じ、遂に城を拔きしかば、董親父子·日向國庄内に奔りしとぞ。又貞親の裔に親治·見え、又弟子丸村北辰妙見社大水三年三月廿四日棟札に顧主本田因幡守兼親·兩度興起焉」と。又姫城村の姫木城は上代隼人女曾の舊跡とか云ふ。後世本田氏の一族本田實親·天文十七年、本城に據りしも伊集院忠期に攻められて降る。董親日向へ出奔の後、島津貴久·一族島津右馬忠將を大隅の地頭とし、〓水城を治所とせしめ、伊集院忠明を姫城の城主とす。又始良郡溝邊城は元弘の頃、溝邊孫太郞·據りしが、舊記に據るに「延文三年二月、島津氏久の執事本田信濃重親·當城にあリ。畠山國明〔一說直顯)·其の執事野元藤次秀安をして、當城を圓ましめ、後和を結ぶ」とあり。一に看初城に作り、文明の頃には肝付兼固·據りしと云ふ。ホムタホムタホムタ西九六 ホムタホムタ田三郞右衞門利明(北夷)、その他、攝津、備前、志摩、伊勢等に存し、又近き世、阿波の學者に種竹本田幸之助あり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)