當郡
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
と音異なれど、テとトとは同行の音なれば、テシマの名、東國に來りてトシマと訛りたるか。大里郡に手島村あり、同地より出でたる手島氏、又豐島氏とも云ふは之を證して餘りあるべし。その當國に移住したる事情詳かならざれど、印波國造(下總)、長狹國造(安房)、那珂國造(常陸)、石城國造(磐城)等、皆此の經朝-右近人右近所需-弘氏重任太郞-經弘=氏と同族にして、早くに造せてれ、勢力盛んなるより察すれば、此の氏それらをたよりて東下せしものかと察せらる。又仁德紀十一年條に、武藏人强頸と、河內の人茨田彩子とが、河川を修して茨田屯倉を開きたる事あり。而して手島條に述べたるが如く、此の氏と茨田氏とは同族なれば、强頸は手島連、卽を豐島氏かとの說あり(鳥居龍藏氏)。武藏條參照。14桓武平氏秩父氏族されど、後世·當國の豐島氏は桓武平氏にして、秩父六郞將恒より出づと云ふ。或は秩父氏の族人·古代豐島連家の名跡を襲ぎしものならんか。豐島系圖に「秩父六耶將恒の子秩父別當武基が弟、二郞武常·始めて此の氏を稱す」と云ひ、或は武常は秩父別當武基の弟とも傳ふ。また般若院千葉系圖には「忠賴-政恒(武藏守) -武本-恒家(八幡殿の內、七騎の內)-泰家(豐島、平檢校三郞)-〓光(葛四三郞)」と載せ、また千葉上總系圖には「忠賴-將恒(武藏守)-武常(一說武綱三男)-常家-康家(號豐島太郞)-〓光(同幅守)-〓重(葛西三郞)」など見ゆ。而して武綱は、同系圖に「武常の兄·秩父別當武基-武綱(十郞、伊豫守、賴義·奧州合戰の時、先陣を輪ふ)」と云ふ。また餘目舊記に「良文、武藏權守將常、秩父武基、一番合第從五位下武常、二代目敷島口□杖常家、三代目三郞虚家、四代目權頭〓元、葛西三郞〓重」と。カサイ條に詳か也。康家の後は、其の子太郞近義·曹島に在城すと、是は今の上中里平塚の城なりとぞ。近義は鎭守府將軍源義家に仕へし人にして、其の弟を二郞常家と云ふ、〓光は孫なり。東鑑、治承四年九月三日の條に、「豐島權頭〓元に、賴朝·書を與へしこと」を載す。元は光の誤なるべし。當国にて江戶太郎重長と並びて有勢のこと想像せらる。又同十月二日辛巳「賴朝·下總より當國に至りし時、清光(吉川本に〓元)、葛四〓重と共に最前に參謁」せしこと、及び壽永三年、志水冠者征罰の時「河越·豐島等に令して信濃國に下向せしむと云ふ事、是れ亦東盤に見ゆ。又豐島右馬允朝經と見えたるは、〓光が子にして、初めは太郞と稱せしなり、後土佐の守護職となり、建仁三年十月十五日、叡山の衆徒に討たる。其の子孫に、三郞兵衛泰量より、朝泰、景村等相續いで豊島に住せしとなり。朝奉が五世の孫を勘解由左衞門泰經、平左衞門泰明と云ふ。兄弟·分れて平塚、石神井の二城に籠り、文明九年太田持資(道灌)と江古田原に戰ひて、兄弟共に討死し、石神井城陷れり。此の時當所をも去りしにや。其の後、拳經の子勘解由左衞門尉康保·小田原北條氏に仕へて、二百三十二貫八十文を領せしとなり。康保の子は經忠也(新編武藏風土記)。15氏人保元物語、官軍勢汰の條に武藏には豐島四郞、」また白河殿攻め落す條に「武藏國の住人豐島四郞も、須藤九郞に弓手の太股を射さす」と。また東鑑、卷の一、五、九に豐島權守〓光、十に豐島八郎、豐島權守有經、十三に豐島兵衞尉、二十一に豐島又太郞、豐島小太郞、二十五に豐島五郞、豐島十郞、豊島九郞小太郞、二十七に豊島太郞朝經、三十四に豐島又太郞時光、四十一、四十五に豊島平六經秦、四十八に豊島四郞太郡·等見え、又承久記卷四に豊島彌太郞·あり。その後、楠木合戰注文に「大番衆·大和楠木合戰注文に「大番衆·
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)