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甲賀(6)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

6若狭の甲賀氏神名帳私考所引安居院の神道集に「甲賀權守諫胤(ヲリタネ)が子に、甲賀太郞諏致、甲賀二郞諏任、甲賀三郞數方とて、三人の兄弟あり。三郞は信濃國藝科嶽の人穴に入りて、數年奇しき國々を巡れる問、兄二人して三郞が所領を犯し奪へるが、二郞なほ惡逆あるによりて、太郞はそれを避けて、所領下野字都宮へ下りて、後神となり、示現太郞大明神と云ふ。其の後、數年を經て、三郞·信濃に歸來りて諏方明神となる。ニ人の兄は、信主明神の計によりて、三郞と中睦まじくなりて、衆生擁護の神となる。中にも二郎は先非を悔ひて、若狭國にて田中明神となれる」趣を記せり。其の本文に「甲賀次郞·先非罪科を悔ひ悲み御怠狀有ければ、北陸道守護神となり、若狭國田中明神とて立給へり云々」と。伴氏曰く「そも〓〓此の神道集は、すべては論ふにも足らぬ謾說ながら、甲賀次郞の田中神となれりとしも云へるは、元來甲賀某と云ひし人の由綠ありし古傳說を、下心ありてかく作リなしたるものときこえたり。さらでは世にも聞えぬ當國の田中明神を引出べきにあらず。さて又神道集に、信主明神の事をいへるに、當郡三宅村に信主明神社あり。此の神の事は、志に『延喜四年六月廿四日降臨、九月八日、創めて祠を建つ。其の明日異人來リ拜して、信主明神の字を祠柱に書して去る』と記せり。これ里人の傳說なり。又三方郡上野村に諏訪明神ありて、卽ち件の田中神の因に載せたるは緣ありげなリ。又伊賀志に、甲賀家傳を引て『醍醐天皇の御世、信濃國人諏訪左衞門源重頼が嫡子望月太郞重家、二男諏訪二郞貞頼、三男望月三郞兼家、若狹國高懸山の强賊を誅伐すべき旨、勅を奉り、卽ち賊を平。兼家殊に武勇を勵みて功ありしを、二人の兄〓みて密に兼家を深谷に押し落し討死したる由を奏し、おのれら賞に預りて有りけるに、兼家ヲ命死なずして家に歸りしかば、兄弟耻ち恐れて迯去リm2故に兼家、おのづから兄の所領を得て、勢在りけるに、平將門が謀叛の時の軍に功ありければ、其の賞として近江國甲賀郡を賜はり、後に伊賀半國をも塲はリ、佐那具に住り』といへり。此の說も本書には種々疑はしき事ありて、悉くは、信じがたけれど、もはらあとなし事ともきこえず。また羅山文集に『大同觀音堂は水口に在り。余·緣起を一見するに、甚だ卑俚、云ふに足らず焉。曰く昔甲賀三郞兼家は、兄太郞次郞と共に衆山に遊ぶ兼家·若州高懸山窟に入り、鬼輪王を射殺す。時に太郞次郞·兼家を陷掩す。兼家·化して蛇となる。其の窟は信州木葱松原に通ず云々』と記されたり。此の嚴富今も在り、高き巖の懸屋山にて、たつすく攀臍て至リがたし。此の山今は字音にカウカク山と呼べど、タカヽケ山といへりけむ。さて土人も甲賀三郞が入りし窟なりと云傳たり、」と。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

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