特野
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
四五〇〇背き申す。宮を初め、新田一門·漢合と申す所にて、皆討死して、父子只二人うちもらされ、奥州へにげ下り、岩城の近所酒邊と云ふ所に隱れ給ひしが、小山若大丸の敵により、奧州にも安堵せず。相州に忍び行き、箱根山のおくに底倉と云ふ所あり。木賀彥六といふものに頼みて、かくれたまひしを、如何にしてか聞き出しけるにや、竹の下の住人慶曲と云ふ者、しのび來り、應永十年四月廿五日、新田相模守入道行啓、底倉山中にて討死あり。子息刑部少輔は、一緒に御座はさざりし故、相州ばかり御討死なり。其の賞として、藤曲に底倉木賀を賜はり、上杉禪助に屬して、安藤と改名す」と。新田義則が底倉に殺されたる事に關し、諸書いづれも大同小異であるが、その中、全く事實の相違せるは、喜連川判鑑、浪合記であつて、この書に據ると、義則は木賀彥六のために殺された事となつて居증0又、義則の名も、或は義隆と書し、義陸と記し、一定してない。是等の事に關しては、拙著相州傳に、その異同を辨じて置いた故に、委しき事は、これに就いて見られたい。介に從ふ)、」見え(カノ條參照)、その後、源平盛衰記に「藤内遠景、弟の六郞、新田四郞忠經」と又「伊豆國住人新田次郞忠俊」などを載せ、また曾我物語卷五に新田三郞、卷八に「伊豆の國の住人新田の四郞忠常·猪に乘る云々」とoまた卷九に「忠常、生年二十七歲、」など多し。次に東鑑卷一、ニ、三、四、五、七、八、九、+、十一、十三、十四、十五、十七等に新田四郞忠常と載せ、(加藤景廉に殺さる)、又四郎の弟に仁田五郞、六郞、仁田忠時等あり。翁草、鎌倉時代武士の所領として「五千町、豆州の内、新田四郞忠綱」と載せ、又紋請牒に救を二疋馬とす。此の流は普通ニタ、ニタンなど割ず。34駿河の新田氏大石寺建武元年文書に新田孫五郞を載せたり。南條、不來方、後藤、佐渡等の條參照。35三河遠江の新田氏二葉松に「設樂郡名倉村〓水城。新田孫六、或は右衞門佐の居城也。此の末葉·遠州堀江の城主」と載せたり。遠江大澤氏配下の將に新田友作入道喜齋あり。36尾張の新田氏愛知郡大喜城は新田四郞の居城と傳へらる、張州府志に見ゆ。森部、大喜等の條を見よ。37美濃の新田氏康正段錢引付に「八貫八百五十五文·新田左衞門佐殿、濃州之内、所々段錢」と。38近江の新田氏與地志略に「蒲生郡上羽田村。上野牢人新田三郞兵衞·當庄を屋形より賜はり、新田新五郞といふ。その先·義重より二十二代刑部少輔義幸の嫡男」と載せ、又蒲生家臣に新田上總允·見ゆ。39丹波の新田氏多紀郡の名族にして、新田尾張守義治(太郞九郞)の後と云ふ。中馬條に詳か也。40美作の新田氏笠庭寺記に「東北條郡高倉莊(金十兩三朱)新田宗久」を載せ、下りて東作志に「英田郡江見庄山城村庄屋新田助右衞門」見ゆ。41播磨の新田氏揖保郡新田〓と關係あるか。又元弘三年七月、新田兵部大輔に、當國福居庄維貞跡を賜ふ綸旨、集古文書にあり。その他、前各條參照。42〓和源氏足利氏族阿波國岸系圖に、「義植公の三男新田義倶公·阿州に下向、府中に屋形を構へ、國司と號す」、と載せ、阿波志に「源義近·居府中壘、新田氏族、相傳領一萬六千貫」とあり。なほ久保、〓水等の條參照。43伊藤の新田氏宇摩郡川瀧村下山に新田左少將義宗の墓あり。且つ新田神社(村社)も有りと。一說に義宗は當國道後に卒去の事を記す(第四項參照)。下山の事は愛媛面影などに見ゆれど、信じ難しと云ふ人あり。44土佐の新田氏佐伯小三郞經貞軍忠狀に「凶徒花園宮、新田綿打入道殿」と。南朝の忠臣也。45豐後の新田氏圖田帳に「國領三重〓、百八十町、新田陸奥守殿」と。又後世、脇谷義助の子義治の裔と稱する新田氏あり、系圖に「義助-義治(義陸の弟)-左衞門尉兼治(又二郞、鎭四宮に供奉して筑前國に下向) -左近太郞義遠(國松丸)-主稅助尹松(勅次郞)-勅次郞忠治(太郞)-新田太郞次郞義照(大友家に屬し、大内合戰の時討死し了) -源右衞門、弟太郞次郞義政-太郞次郞義信(早世)。義政の弟新田兵部大輔鎭景(遠江守。大友宗麟に仕ふ、其の弟右馬助あり)-新兵衛.第儈善了、弟鎭實(肥後守、掃部助、とあり。なほ久保、太郞次郞。大友宗麟に仕ふ)-統喜(新田源太郞、大友義統に仕ふ)-茂政(佐田〓兵衞、立花宗茂に仕ふ)」なりとぞ。第四十七項と同流也、參照せよ。其の他、以下數項參照。46豐前の新田氏京都郡「馬箇岳城は應永廿八年頃、征四將軍の家臣新田上野介義基·在城して三代居リしが、大内勢に攻め取らる」と(國志)。その後、新田義氏、同義高等、一時京都郡より、宇佐、下毛兩郡に威を張れり。又上毛郡に新田覺雲齋(應仁頃)等見ゆ。この流は、新田基氏の二男死居(新井)禪師覺義(義貞の叔父)の後と云ふものにして、新田上野介義基(太郞)は、覺義の長男なりと。脇谷義治と共に、三騎に討ちなきれ、後延元三年正月、吉野皇居を守衝し、興國元年、懷良親王に從ひて太宰府に下向、菊池肥後守武光と諾して、豊前馬ヶ岳城に居ると傳へらる。その男義氏も新田上野介と稱して、馬ヶ岳に居城レ、應永九年八月に卒す。その弟義紀は新田彈正大弱と云ひ、兄義氏と同じく、馬ケ岳城に居りしが、應永五年十一月廿八日、大内義弘と戰ひて死す。佐伯小三郞經貞軍忠狀新田綿打入道殿」と。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)