物(3)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3陸奥の志太連物部氏の族にして、常陸の信太連に同じかるべし。弘仁二年四月紀に「陸奥國人外正六位下志太連宮持に、外從五位下を授く、重敢を褒むる也」と見ゆ。當國志太郡信太〓、玉造郡信太〓等、和名抄に載せたり。關係あるか。4〓和源氏爲義の子義廣·志田と稱す。尊卑分脈に「爲義の子義憲(二條院藏人、伊豆守、從五下、文治元八十四、源氏六人受領の内。志田三郞先生と號す。伊賀國住人服部六郞時定に討たるゝ時、自害す)-義延(中宮侍長、駿河守、從五下、頼朝卿の命に依り誅され了る)」と見え、その他、源家の諸家系圖に、志田三郞義廣とあり。義廣は、平家物語に「常陸國には信太三郞先生義憲、佐竹冠者昌義云々、」また志田三郞先生義〓。源平盛衰記にも志田三郞先生義憲とも、「常陸の國には、爲義が子義朝が養子に信太三郞先生義憲」ともあり。又東鑑卷一、二に信太三郞先生義シタ二九八郞父子と戰て敗せり云々、』何年の頃、此の堂を建立せしにや、由來事跡等分らず。一本(江戶の事跡を書きたる古書)に『昔小山の太郎行重、奧州の國司信太の小太郞が事を申上げんと、上洛せしに、江戶の湯島と云ふ處にて、信太と戰ひて、小山討れたり。其の靈·業をなしけるによりて、稻荷に祀る』と記せり。信太の小太郞は將門の孫なり。現今俗に謂ふ妻戀稻荷なり。又妻戀橋は小山の判官が信太の小太郞に戰ひ負けて、此の橋まで逃げ來り、爰にて倒れ死せりと。古跡、五人塚。信田小太郞主從五人、此處へ落ちて來りしを、追人かゝりて討ちたるを葬りし塜といへり(姫一人、近習二人、側坊主一人)。古は木像も五軀ありしが、今は四軀あるのみ」など見ゆ。14雜載德山藩士信田十左衞門の子作太夫數嵐に幕末動王家として名高し。志太シダ次條に併せ云へり。又信太條志田を參照せよ。シダ駿河國に志太郡あり、萬葉集に斯太、思太に作る。又後世志駄郡ともあリ。次に陸奥國(陸前)に志太郡あり、共に和名抄に見え、後者郡内に信太郷を收む。廣と見ゆ。養和元年二月廿八日條に「志太三郞先生義廣、濫惡·常陸國鹿島社領を掠め傾す云々、」また閏二月廿日條に「武衞伯父志田三郞先生義廣·骨肉の好を忘れ、忽ち數萬騎の逆黨を卒し、鎌倉に度らんと欲す緯·既に發覺、常陸國を出で、下野國に到る云々、」廿三日條に「義廣·三萬餘騎の軍士を率し鎌倉方に赴かんとす云々」と。戰敗れて伊勢に死す。オホイ條第廿四項を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)