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物忌(3)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

3鹿島の物忌氏傳へ云ふ「最初の物忌は、武甕槌大神を出雲國五十田狹の小汀より茨城國見目浦(卽ち鹿島)に移せし人と云ひ、第二の物忌は神功皇后三韓征伐の後、第一の姫宮普雷女を物忌に備へ給ふ」と。物忌相續次第には、普雷女連を雷大臣命の女とす。此の物忌は當社の重職にして、代々神職の女をト定す、物忌龜ト記あり。後世は專ら當雨宜家の女子中よリト定し、當宜家·物忌代として權力を奮ひ、大宮司家と勢力を爭ふ。千富家、後の東家、れ也。東(ヒガシ)、千富等に參照。物忌は掌る、但し女子なれば、物部氏の下略也。モノノ又源平盛衰富国宜·代行す。常には神野跡宮荒祭宮)の物品館に住し、終身官にして、男子は親兄弟も入るを得ず、父母の裏にも服せざりき。文祿の御神領書に「九十石·神主殿、百二十石·おものいみ、二十石·松岡、十七日坂戶はうり、十三石·總追、三石·儉比師十石·宮介、貳石·田所、十五石·小別當、十石·中神、五石·和田はうり、十五石·總社家中、合せて三百十三石」と。猶ほ勢力の盛なるを觀ふべし。新編國志に「宮中神野村は、物忌被管の神民居住の地なり。これを秋屋と云ふ由、社例傳記に說あり。今は殿原とのみ云ふ」。鹿島卷には「御物忌の事常陸國秋屋里と云ふ所に、此の物忌になる氏あり。止の氏を或は大中臣と云ひ、又中臣とも申す。國人は秋屋の氏と申すなり」と(地名辭書、鹿島神宮誌)。これより前、鹿島文書、仁治元年攝政家政所下文に「物忌代々屋敷一町八反」、永享七年八月連署に「物忌代千富權禰宜中臣스폰と見え、慶長九年神領割符に物忌代當禰宜·三百石」と。而して相續次第に「普雷女連-宮日子連(以下連を省く) -尾亞女小波順女短子三川子若日子宮三子家貞子虎子黒虫子-牛子-藤妙子-朝日子(寛治)-製裝子(仁安)-犬子(建仁)-熊子(正德) -鶴王子(康曆)-龍子(嘉吉)-采子(永正)-仙王子(慶長)-菊子(寛文)-豐子(寶永)-光子(安永)」と の物江モノエこれも物部の訛なるべし。後世、藤原姓と稱す。會津地方の名族にして、新編風土記、耶麻郡大谷村條に「館述·物江銅六信連と云ふ者築き住し、小森山館と稱へしとぞ」と載せ、又「熊倉村舊家物江左仲太。此の村の檢斷なり。藤原姓にて、昔は鉛木氏を名乘り、代々葦名家に仕ふ。後物江氏に改めしと云ふ。慶長の頃、雅樂之丞高辛·男子なければ、細川氏の子土佐某を養ひ、女に要はせて家名を繼がしむ。相續いで檢斷を勤め、今の左仲太高憲に至る」と云ひ、又慶長六年十二月文書に「物井一類云々、物江土佐椽」を擧げたり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

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